「自分には、特別な才能なんてない」。そう思って、やる前からあきらめたことはありませんか。
もしあなたが、スタートラインに立つ前から、結果を想像して足が止まっているなら。
もしあなたが、コツコツ続けることに、意味を感じられなくなっているなら。
もしあなたが、「人に助けてもらうのは情けない」と思っているなら。この記事は、あなたに向けて書きました。
僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
今日は、アジア選手権で2年続けて1位になり、世界ランキングが最高6位まで上がった頃の話をします。
こう書くと、すごい選手の話に聞こえます。でも、中身はぜんぜん違います。出発点は、プールで25メートルも泳げない、31歳の僕でした。
最初に、いちばん大事なことを言います。僕は、特別な才能のある人間ではありません。
むしろ逆です。小学校の成績は、3段階でほとんどが1か2。徒競走は、ビリか、ビリから2番目。運動も勉強も、苦手でした。
トライアスロンを始めたのは、31歳です。
泳ぐ、こぐ、走る。その最初の「泳ぐ」で、25メートルが泳げませんでした。
1キロ走るだけで、膝が痛くなる。やり方も分からない。目も見えにくくなっている。
31歳の僕は、レベル1でした。
つまり、何もかも、いちばん初めから覚えるしかなかった、ということです。
……それでトライアスロンを選ぶのだから、我ながら、どうかしています。
だから、もしあなたが今「自分には何もない」と思っているなら、あの頃の僕と同じ場所にいます。世界ランキング6位の話は、その「何もない」場所から始まったのだと、まず知っておいてほしいのです。
僕は、コーチや仲間に支えられながら、少しずつ前に進みました。
泳ぎは、習いました。25メートルが泳げるようになり、それが50メートルになりました。
膝が痛くて走れなかったのが、少しずつ走れるようになりました。1ミリずつ、できることが増えていきました。
そして、始めて半年ほどで出た初めての大会で、1位になりました。自分でも、びっくりしました。(この大会の話は、別の記事にくわしく書いています。)
でも、大事なのはその先です。
初めての大会は、ゴールではありませんでした。「もっと先に行けるかもしれない」という、新しい道の入口でした。
昔の僕の口ぐせは、「どうせ無理」です。
それが、「やってみたら、できた」をひとつずつ積んでいくうちに、「次も、できるかもしれない」へと少しずつ変わっていき、ずっと下を向いていた僕の顔が、気づけば前を向いていました。
積み重ねた先で、僕は2015年と2016年、アジア選手権で2年続けて1位になりました。
「2年続けて1位」と書くと、強い選手のようです。
でも、僕の実感は違います。これは才能でもらったものではありません。「続けてきたこと」が、たまたま目に見える形になった。それだけです。
毎日の練習は、本当に地味です。
プールで、決めた距離を、ただ淡々と泳ぐ。誰も見ていない朝に、コツコツ積む。派手なことは、何もありません。
だから僕は、結果そのものより、「あの地味な毎日を、よく続けてこられたな」と、そちらのほうを誇りに思っています。
それに、「2年続けて」という言葉は、僕にとっては別の意味を持っています。
一度きりのまぐれではなく、次の年も同じように準備をして、同じように仲間と大会に出て、もう一度同じ場所に立てたということが、順位よりもずっとうれしかったのです。
その歩みの先で、僕の世界ランキングは、最高で6位まで上がりました。
世界で、6番目。
成績はほとんど1か2で、徒競走はビリのあたりを走っていた子どもが立つには、ずいぶん遠い場所です。本人がいちばん驚いています。
でも、ここでも正直に言います。
6位という数字よりうれしかったのは、「続けてきた道が、ここまでつながっていた」ということでした。
才能のある人は、もっと若く、もっと速く、ここに来るのかもしれません。
僕は遠回りでした。31歳で、25メートルから始めて、階段を1段ずつ上がってきました。
世界6位は、才能のごほうびではありませんでした。やめなかった人間が、たどり着ける場所でした。
世界の上位の選手たちと同じ舞台に立てたとき、長いあいだ僕の中に住みついていた「どうせ無理」「自分なんて」という思い込みが、根っこから静かにひっくり返りました。
ここで、どうしても伝えたいことがあります。この歩みは、最初から最後まで、僕だけの力ではありませんでした。
視覚障害B2の僕は、レースでは、ガイドがいないと進めません。
スイムは、ガイドとロープでつながって泳ぎます。バイクは、2人乗りのタンデム自転車で、前に乗るガイドと息を合わせてこぎます。ランも、ロープでつながって、横にならんで走ります。
正直に言うと、最初は「助けてもらう側」になるのが、情けなくてたまりませんでした。
人の手を借りるたびに、HPが減っていく気がしました。
つまり、助けてもらうたびに、自分の弱さを見せつけられるようで、つらかった、ということです。
でも、ガイドと一緒に泳ぎ、こぎ、走るうちに、気づきました。
これは、一方的に助けてもらう関係ではない。僕とガイドは、同じゴールを目指すチームなんだ、と。
僕にしかできない役目があり、ガイドにしかできない役目があって、2人でひとつになったときに初めて前へ進めるのだと分かった日から、「助けてもらう情けなさ」は、「一緒に挑む心強さ」に変わりました。
だから僕は、この結果を「自分の力でつかんだ」とは言いません。ガイド、コーチ、家族。つながる輪の中で、みんなと一緒にたどり着いた場所です。
僕をここまで運んだのは、才能ではありません。「続ける力」です。
ふり返ると、その力は、ずっと前から僕の中にありました。
ほかに行ける所がなくて選んだ工業高校。クラスの数がだんだん減っていく中で、僕は留年せずに卒業しました。
会社員の頃、図面が見えにくくなってからは、確認を2回、3回と重ねて、仕事に食らいつきました。
派手ではありません。一気に変わるわけでもありません。
それでも、毎日自分の席に座り続けて、1ミリでも前に進んで、それをやめないという、誰にもほめられないような地味な力が、25メートルも泳げなかった僕を、世界6位まで運んでくれました。
続ける力は、才能と違って、誰でも今日から積めます。スタートが低くても、関係ありません。
アジア選手権や世界ランキングの舞台を経験したあと、僕は、226kmのIRONMANに挑むようになりました。アラフィフになった今もです。
2026年9月13日には、IRONMAN JAPANを完走しました。14時間43分54秒でした。
世界を見たのだから、そこで「にげる」を選んでもよかったのかもしれません。
つまり、「もう十分やった」と言って、競技をやめてもよかった、ということです。
でも僕は、世界を見たことで、逆に「まだ先がある」と思うようになりました。欲ばりです。
レースには、結果が出る日も、出ない日もあります。それでも、続ける力でここまで来た僕にとっては、結果よりも「今も挑み続けている」ということのほうが、ずっと自分らしいのです。
もし今、あなたが「自分には才能がない」とあきらめかけているなら、どうか思い出してください。
世界ランキング6位の僕の出発点は、25メートルも泳げない31歳でした。しかも、目が見えにくくなっていく中でのスタートです。
スタートが低いことは、ゲームオーバーではありません。
つまり、始まる場所が低くても、それで先の道が閉じるわけではない、ということです。
一気に世界を目指さなくていいのです。今日、1ミリだけ前に進む。それを、明日もやめない。
そして、もうひとつ。全部を自分だけでがんばろうとしなくていいのです。
誰かと一緒に進むことは、情けないことではなく、自分だけで進むよりもずっと遠くへ行ける方法なのだと、25メートルも泳げなかった僕は、ロープでつながってくれた仲間たちから教わりました。
あなたが今日積む1ミリを、心から応援しています。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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25メートルも泳げなかった僕が、ガイドとロープでつながって226kmに挑むまでを、YouTubeで1話ずつ動画にしています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人