「あれ、補給のジェル、どこにしまったっけ」。226キロのスタート前にこれを考えはじめたら、もうパニックです。
もしあなたが、大事な本番の朝、緊張で頭がいっぱいになってしまうなら。
もしあなたが、いつも前の日の夜にバタバタしてしまうなら。
もしあなたが、「本番は気合いだ」と言われて、少し苦しくなったことがあるなら。
この記事は、あなたに向けて書きます。
僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
2026年9月13日、IRONMAN JAPANを完走しました。タイムは14時間43分54秒です。
今日は、レース当日の朝、僕がいちばん最初にすることを書きます。先に答えを言います。何も考えません。考えることは、前の日までに全部すませておきます。
レースの朝は、誰でも緊張します。心臓がドキドキして、頭の中がふわふわします。
緊張している朝の僕は、レベル1です。
つまり、いつもなら当たり前にできることが、急にできなくなる、ということです。
そんなときに「ゼッケンは何時までにつけるんだっけ」と考えはじめたら、あせります。あせるほど、手が止まります。
この感じを、僕はよく知っています。目が見えにくくなっていった頃、図面を見る仕事で、いやというほど味わいました。1回ですんでいた確認が、2回、3回と増えていく。早くしなきゃと思うほど、手が止まる。
あのあせりを、レースの朝にもう一度味わいたくはありません。
だから、決めました。当日の朝に、新しく考えることを、ひとつも残さない。
何かを決めるのは頭が落ち着いている前の日までの僕の仕事で、朝の僕は、前の日の僕が決めておいてくれた手順を、上から順番にただなぞっていくだけの人にしておきます。
当日の朝の僕は、決める人じゃない。前の日の僕が決めたことを、やるだけの人。
「本番は気合いだ」と、よく言われます。
気合いは大事です。でも、気合いだけで動こうとすると、見えにくい僕は、必ずどこかでつまずきます。
僕の合言葉は、「気合いより段取り」です。
気合いは、HPと同じです。
つまり、使えば減るので、本当に苦しい場面まで取っておきたい、ということです。
準備のうちから気合いを使ってしまうと、レースの後半、いちばんほしいときに、もう残っていません。
やることが決まっていれば、気持ちが落ち着かなくても、体は動きます。「次はこれ、その次はこれ」。順番をたどっているうちに、いつのまにか準備が終わっています。
落ち着いてから動くのではなく、決めておいた順番どおりに手と足を動かしているうちに、あとから気持ちのほうがゆっくり追いついてきて、気がつくと落ち着いている。段取りとは、そういうものだと思います。
見えにくい僕がいちばんこわいのは、「物が見つからない」ことです。
見えている人なら一瞬で見つかる物が、僕には、さがすだけで何分もかかります。本番の朝にそれをやったら、心が一気にけずられます。
だから、道具は前の日までに、全部決まった場所にしまっておきます。
さわれば分かる。それが、僕にとっての「見えている」状態です。
これは、レースのためだけの工夫ではありません。家の中でも、物の場所を決めて、いつもそこに戻します。
レースの朝に特別なことをしているわけではなく、見えにくい世界で毎日をおだやかにすごすためにふだんからやっている工夫を、そのまま本番の日にも持ちこんでいるだけなのです。
地味です。でも、この地味さに、何度も助けられています。
長いレースでは、補給がとても大事です。
そして補給は、おなかが空いてからでは遅いです。空いたと感じたときには、もうエネルギー切れの一歩手前にいます。
だから僕は、おなかではなく、時計で食べると決めています。決めた時間が来たら、おなかの感じに関係なく、口に入れます。
補給は、レース中の回復です。
つまり、力がなくなる前に、少しずつ足しておく、ということです。
これを本番でスムーズにやるために、補給は前の日のうちに、取り出す順番まで決めてならべておきます。
朝に「次は何を食べよう」と考えるのではなく、決めた時間が来たら、決めた順番で取り出すだけ。ここでも、朝の僕に判断を残しません。
長いレースのあいだずっと元気でいられるかどうかは、レースが始まってからのがんばりよりも、前の日の夜に補給をひとつずつ順番にならべていた、あの静かな時間のほうで決まっている気がします。
僕のレースは、僕だけでは成り立ちません。スイムとランは、ロープでガイドとつながります。バイクは、2人乗りのタンデムです。
だから、当日の朝にやることの中で、とくに大事なのが、ガイドとの確認です。
これを言葉にして、2人ですり合わせます。レースが始まってから「どうする?」と相談していたら、間に合いません。
昔の僕は、人に助けてもらうことを、情けないと感じていました。視覚障害者になりたての頃は、「助けてもらう側」になるのが、悔しくてたまりませんでした。
でも、トライアスロンを続けるうちに、気づきました。ガイドは、僕を助ける人ではありません。いっしょに進む、対等なチームです。
だから朝の確認は、僕からのお願いというより2人の作戦会議で、どちらが上でも下でもなく、同じゴールに向かって合図をそろえていくあの数分間が、僕はけっこう好きです。
ここまで読んで、気づいたかもしれません。当日の朝に僕がやっているのは、ほとんど「前の日に決めたことを、なぞる」だけです。
道具は、決まった場所にある。補給は、順番にならんでいる。ガイドとの合図は、そろっている。
前の日までの準備は、僕にとってのセーブです。
つまり、朝どんなに緊張しても、「ここまではできている」と安心できる場所を、先に作っておく、ということです。
考えなくていい。迷わなくていい。さがさなくていい。その分の力を、これから始まる長い1日のために、まるごと取っておけます。
もちろん、それでも緊張はします。……ここまで準備しておいて、しっかりドキドキしています。
でも、それでいいのです。緊張を消すことが目的ではありません。
考えなくても体が動き、さがさなくても物がそこにあり、迷わなくてもガイドと合図が通じるという土台があるから、僕は緊張したままでも、ちゃんとスタートラインまで歩いていけます。
これは、レースだけの話ではありません。あなたにも、大事な本番の朝があるはずです。試験の日。面接の日。大きな発表の日。
その朝に、持ち物をさがしたり、やる順番を考えたりしていませんか。
もしそうなら、ほんの少しでいいので、決めることを前の日に引っこしてみてください。
もうひとつ。準備には、終わりの時間も決めておくのがおすすめです。「ここまでやったら、もう考えない」と線を引きます。やるだけやったら、あとは休む。休むことも、立派な準備です。
僕がこのやり方にたどり着いたのは、見えにくくなっていく中で、たくさん失敗してきたからです。あせって物をさがして、見つからなくて、もっとあせる。そのくり返しでした。
緊張している朝の自分は、いつもの自分よりずっと不器用なので、その不器用な自分でも迷わないように、前の日の自分が道をととのえておく。準備とは、明日の自分への手紙のようなものだと、僕は思っています。
ピンチはチャンス。カギは、気合いではなく工夫です。
あなたの大事な1日が、落ち着いた朝から始まりますように。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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25メートルも泳げなかった僕が、ガイドとロープでつながって226kmに挑むまでを、YouTubeで1話ずつ動画にしています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人