人生が変わった日のことを、あなたは覚えていますか。
僕は、ほとんど覚えていません。
もしあなたが、病名を告げられたのに、涙が出なかったなら。
もしあなたが、「まだ実感がない。自分は冷たいんだろうか」と思っているなら。
もしあなたが、診断を受けた家族が妙に落ち着いていて、心配しているなら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
27歳のとき、緑内障と診断されました。
今日は、その日のことを書きます。といっても、書けることは多くありません。
覚えていることと、覚えていないことを、分けて、正直に並べます。
診察室で、言われました。
「緑内障です」
そのとき僕が思ったことは、これです。
「へ〜。そんな病気があるんだ〜」
以上です。
ショックは、ありません。こわさも、ありません。初めて聞く病名に、ただ「へ〜」と思っていました。
この日の僕は、ラスボスに会ったのに、相手が誰なのか分かっていませんでした。
つまり、人生でいちばん大きな相手に出会ったことに、まったく気づいていなかった、ということです。
じつは僕は、高校3年のときに、両目の白内障の手術を受けています。それさえ、このときは忘れていました。
そのあとおよそ20年の暮らしをまるごと変えてしまうひとことを聞いたのに、聞いた本人は、新しい言葉をひとつ覚えたくらいの気持ちで、診察室にいました。
いまなら、理由が分かります。
まだ、見えていたからです。
仕事も、ふつうにできていました。そして、その仕事が楽しかった。
現場は毎日動いていて、やることは山ほどあります。目のことを考えているひまが、ありませんでした。
それに、緑内障がどんな病気で、この先に何が起きるのか、僕はひとつも知りませんでした。
知らない相手は、こわくありません。
あの日の僕が落ち着いていたのは、心が強かったからではなくて、これから何を失っていくのかをまだ知らず、失うものの名前さえ、ひとつも言えなかったからです。
少し、前にもどります。
27歳の僕は、電気工事の現場監督でした。
ある百貨店の、改修工事の現場にいたときです。
天井の蛍光灯のまわりが、虹色に見えました。
目が、痛い。かすむ。頭も、痛い。
でも、仕事が忙しくて、すぐには病院に行けませんでした。
そして、このことを、とくに誰にも言っていません。
しばらくして、やっと病院に行きました。
ほめられた話では、ありません。ただ、そうだった、というだけです。
明かりは虹色に見えていて、目も頭も痛かったのに、僕はそれを誰にも言わないまま、いつもどおり現場に立って、いつもどおり段取りを組んで、仕事を続けていました。
病院を出たあと、僕はどこへ行ったのか。
覚えていません。
たぶん、家に帰ったんだと思います。
あの帰り道は、セーブされていませんでした。
つまり、病院を出たあとの場面が、記憶にまったく残っていない、ということです。
空が明るかったのか、いつもの道だったのか。それも、書けません。
「へ〜」は、こんなにはっきり覚えているのに。
肝心なところが、ぬけています。
人生が変わった日に、変わった本人は、たぶんいつもどおりに家へ帰っただけで、あの帰り道について僕が正直に書ける文は、それひとつしかありません。
そのあと、僕はパソコンで「緑内障」を調べました。
それが、診断された日の夜だったのか。何日かあとだったのか。
これも、覚えていません。
覚えているのは、画面にあった1行だけです。
一度見えなくなった視野は、回復しない。
進むのをおそくすることは、できる。でも、失ったぶんは、もどらない。そう書いてありました。
「ヤバイ」
初めて、そう思いました。
その夜、眠れたのかどうか。それも、覚えていません。
日づけも、時間も、部屋の様子もぼんやりしているのに、あの1行だけは、およそ20年たったいまも、僕の中から消えないままです。
緑内障のことを、親に伝えたのかどうか。
僕の記憶は、このくらいです。
「言ったかな」
あてにならない記憶です。
親との場面なら、古いものをたくさん覚えています。
九九が覚えられなくて、母に鉛筆で頭をつつかれながら特訓したこと。高校受験に落ちて、「しょうがないね」と言われたこと。
何十年も前のことです。
それなのに、目の病気を親に伝えた場面だけが、どこにもありません。
言ったとしても、軽く言ったんだと思います。本人が「へ〜」なんですから。
このころ、病気のことを誰に話したのか。数えてみます。
回復してくれる仲間は、すぐそばにいました。でも僕は、声をかけませんでした。
つまり、話せば力になってくれたかもしれない人たちに、何も知らせなかった、ということです。
朝礼で顔を合わせて、昼も夕方も声をかけ合っていた人たちが、僕の目に何が起きているのかを知らないまま、同じ現場で一緒に働いていたことになります。
この記事には、「覚えていません」が何度も出てきます。
書いている本人も、あきれるくらいです。
それらしい場面なら、いくらでも思いつけます。
電話のむこうで、母がだまった。帰り道で、足が止まった。
でも、思いつくことと、思い出すことは、別です。
思いついた場面を、思い出した顔をして書くことは、しません。
それをひとつでもまぜたら、ほかの本当の話まで、信じてもらえなくなるからです。
読んでくれる人の胸に残る場面をひとつも用意できないのは心苦しいのですが、僕がこのブログでいちばん守りたいのは、書いてあることは本当にあったことだという1点なので、思い出せないところは、思い出せないまま置いておきます。
病名を告げられた日に、泣けなかった。
それで、大丈夫です。
その日のことを、ほとんど覚えていない。
それも、大丈夫です。
僕が、そうでした。
冷たいから、ではありません。軽い病気だから、でもありません。
僕の場合、重さは、あとから少しずつやって来ました。図面の細かい字が、読めなくなっていきました。目薬をさしました。飲み薬も飲みました。
緑内障の手術は、6回以上受けました。31歳で、13年勤めた会社を離れました。
それでも、ゲームオーバーではありませんでした。
つまり、あの「へ〜」の日のあとにも、僕の人生はちゃんと続いていた、ということです。
もうひとつ。僕は、ほとんど誰にも話しませんでした。それが良かったとは、思っていません。話せる人がいるなら、軽くでいいので、話してみてください。「言ったかな」くらいの軽さでも、かまいません。
ドラマのような1日は、なくてかまいません。「まだ、よく分からない」から始めて、大丈夫です。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
帰り道も、親に言ったかどうかも覚えていない僕が、いまはシュクレと歩き、ガイドとつながって走っているのですから、覚えていない1日から始まった道でも、ちゃんと先へ続いていきます。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、盲導犬シュクレと一緒に学校・企業で講演しています。
テーマ:「挑戦」「障害理解」「盲導犬と歩む人生」「ダイバーシティ」
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中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。