一度で受からなかった試験、ありませんか。
同じ試験を、もう一度受けにいく。あの、ちょっと気まずい感じ。
もしあなたが、資格の試験に落ちて、次を受けるかどうか迷っているなら。
もしあなたが、まわりの人がすんなり通っていく道で、自分だけ足止めされている気がしているなら。
もしあなたが、社会に出たばかりで、まだ何もできない自分にがっかりしているなら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
でも、目が見えにくくなる前の僕は、電気工事の現場監督でした。18歳から、約13年。
今日は、その頃に受けた試験の話です。
電気工事士という資格の、実技の試験。僕は、一発では受かりませんでした。
話は、高校3年の就職の時期から始めます。
僕が通っていたのは、工業高校の電気科でした。実習では、交流の電気を直流に変える装置を作りました。
大学に進むための学科もありましたが、学生のおよそ8割は、卒業したら就職する学校でした。僕も、就職する側でした。
就職先は、学校の就職担当の先生がすすめてくれました。
「会社から求人が出てるし、先輩が何人もいるし、安心だから、面接してみたら」
その言葉で、決めました。電気工事の、施工管理の会社です。
卒業式の日、僕は「これから社会人だ」と思いました。
入った会社には、本当に、同じ高校の先輩が3人いました。優しくて、でも厳しい人たちでした。
18歳の僕の社会人生活は、あの「安心だから」という先生の一言から始まって、そして本当にその言葉どおりの、先輩たちのいる安心の中で、少しずつ動き出していきました。
電気工事士は、電気の工事をするための国家資格です。
試験には、筆記の「学科」と、手を動かす「実技」があります。
高校の電気科を卒業していると、学科は免除になります。僕も、そうでした。
高校の電気科で、電気のことを学んできたからです。あの授業が、ここで一つ、ちゃんと役に立ちました。
残るのは、実技だけ。
実技の試験は、決められた時間の中で、実際に電線を切ったり、皮をむいたり、つないだりして、課題の配線を仕上げる試験です。
電気科を出ているし、会社でも電気の現場にいる。普通に考えたら、通りそうな気がします。
資格は、会社に入ってから受けました。
結果は、不合格でした。
ゲームで言えば、最初のステージで、まさかのやり直しです。
つまり、いけるはずだと思われる場所で、つまずいた、ということです。
電気の現場で働いている人間が、電気の資格の実技で落ちるというのは、なかなか人に言いにくいことで、だからこそ今日は、そこから正直に書いておきたいと思いました。
2回目も、受けました。
2回目も、だめでした。
どこで点を落としたのか、細かいことは、ここには書きません。
ただ、2回続けて落ちるというのは、なかなかこたえるものです。
現場には、毎日、電線を扱っている職人さんたちがいます。その同じ現場で働きながら、資格の実技に2回落ちている自分がいる。
実は僕は、これより前にも、届かなかったことがあります。
高校受験です。行きたかった園芸科の高校には、落ちました。小学5年から家庭教師の先生がついていて、やることはやった上での不合格でした。
やったのに、届かない。その感覚を15歳で一度知っていた僕は、社会人になって、もう一度、同じような場所に立っていたことになります。
そして、3回目。
3回目で、受かりました。
合格です。
派手な話ではありません。でも、僕にとっては、大きな意味がありました。
高校受験のときは、届かなかった。でも今度は、届いた。
やり直しを重ねて、ちゃんとステージをクリアできた。
つまり、一度目でだめでも、受け続ければ、届く日が来た、ということです。
何回目で受かったかは、合格したあとに手にする免状には、どこにも書いてありません。
1回目で受かった人も、3回目で受かった僕も、手にするのは同じ資格で、そう考えると、あとに残るのは「何回目だったか」よりも「やめなかったこと」のほうなんだと、僕は思っています。
あの頃の僕の毎日を、もう少しだけ書いておきます。
初めての給料は、18万円ぐらいでした。使い道は、車です。
先輩のうち、ある人には、仕事の外で、車のことを教わりました。
18歳で車を手にした僕は、そのずっと先に、車の運転をあきらめる日が来ることを、まだ知りませんでした。
会社では、「キャップ」というあだ名で呼ばれていたことがありました。いじられキャラでした。
失敗も、しました。いちばんの失敗は、寝坊です。
夜の工事の日は、現場が終わると、電車の始発を待つまで、先輩たちと居酒屋で飲んでいました。
資格の実技に2回落ちて、寝坊もして、あだ名でいじられて。僕は、できる新人ではありませんでした。
それでも、先輩たちは、僕をかわいがってくれました。
その先輩たちは、今、会社のホームページを見ると、役員になっていました。あの会社を、ちゃんと背負ってきた人たちです。
始発を待つ居酒屋の、あのにぎやかな声の中に、何回落ちても輪の外に出されなかった18歳からの僕がいて、今ふり返ると、あの時間そのものが、もう一度受けにいくための力になっていたんだと思います。
あれから、ずいぶん時間がたちました。
今の僕は、目が見えにくくなり、現場監督の仕事からも離れました。
でも、あの3回目の合格を思い出すと、今の自分の挑戦と、形が似ていると思うんです。
IRONMANも、そうです。2024年は13時間14分17秒で、PCクラス3位。2025年は15時間08分45秒で、タイムは大きく落ちました。
それでも2026年、また出て、14時間43分54秒で完走しました。PCクラス2位でした。
そして今も、IRONMANで11時間を切るという目標に、挑み続けています。
高校受験は届かなかった。電気工事士は3回目で届いた。IRONMANは、タイムが落ちた年もあった。
僕は、一回で届くタイプではありませんでした。
だから、何回目かで届くやり方を、ずっと続けてきました。
一回目でつまずいて、二回目でもつまずいて、それでも三回目の申し込みをするあの感じを、僕は電気工事士の試験で一度ちゃんと知っていたから、タイムが落ちた年のあとも、次の年のスタートラインにもう一度立てたのかもしれません。
試験に落ちたあと、もう一度受けにいくのは、少し気まずいものです。
でも、合格したあとに手にするものには、何回目で受かったかは書いてありません。
1回目で落ちても。2回目で落ちても。3回目で届けば、それでいい。
4回目でも、5回目でも、いいんだと思います。
大事なのは、申し込みを、やめないことです。
落ちた回数は、あなたがやめなかった回数でもあります。
それと、もうひとつ。
落ちた自分を、輪の中に入れておいてくれる人がいたら、その人を大切にしてください。僕にとっての、あの先輩たちのように。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
次の試験の日、受付の列に並ぶあなたの後ろ姿を、僕は、3回目の試験会場に向かった自分の姿と重ねながら、心の中で応援しています。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。