一度やめたことに、もう一度戻ったことはありますか。
前にやめた理由は、たぶん、まだそのまま。それなのに、また同じ場所に立っている。
もしあなたが、「自分には向いてない」と、何かをやめたことがあるなら。
もしあなたが、続けているのに、ちっともうまくならないものを抱えているなら。
もしあなたが、部活をがんばる子どもを、そばで見ている大人なら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
今日は、高校の部活の話です。
中学で「向いてない」と辞めたバドミントンに、僕は高校で、もう一度入りました。
中学に入って、僕はバドミントン部に入りました。理由は、なんとなくです。
シャトルが、思ったように飛びませんでした。
2年生になるとき、辞めました。「やっぱり運動は、向いてない」。そう思って。
そのあとは、農園部に移りました。部員は、僕だけ。なすや、ゴーヤや、きゅうりや、いもを育てていました。
もともと、運動は苦手でした。運動会の徒競走は、ビリか、ビリから2番目。
バドミントンは、僕にとって、途中で電源を切ったゲームでした。
つまり、うまくなる前に、自分から離れたもの、ということです。
あのとき僕は、もう二度とラケットを握ることはないだろうと思っていたはずで、まさか数年後に、同じシャトルの音をまた聞くことになるなんて、中学生の僕には想像もつかなかったと思います。
高校は、工業高校に進みました。男子校で、1クラスはおよそ50人。1年生は全員共通で、2年生から電気科や電子科、機械科に分かれる学校でした。
部活を決めるとき、その高校には、農園部がありませんでした。
自分にできそうな部活を考えて、残ったのが、バドミントンでした。
入った理由は、やっぱり、なんとなくです。
中学で「向いてない」と辞めた、あのバドミントンです。
行きたかった園芸科の高校には落ちて、電気科は残ったものから選んで、部活も、残ったものから選んだ。
ふり返ると、僕の高校生活は、手の中に残ったものを一個ずつ拾い上げていくような始まり方で、そのいちばん最後に拾ったのが、中学で一度手放したはずの、あのラケットでした。
そして、高校のバドミントン部は、3年間続きました。
中学では、1年で辞めたのに。
何が違ったのか。正直に言うと、自分でも分かりません。
うまくなったから続いた、わけではありません。うまくは、なりませんでした。
3年間、レベルはほとんど上がらないまま。
つまり、3年たっても、上手な部員にはならなかった、ということです。
それでも、やめずに、最後まで部にいました。
理由がはっきりしないまま続いたことを、昔の僕なら「たまたま」で片づけていたと思いますが、今の僕は、理由がなくても続いたという、そのこと自体に、少しだけ胸を張っていいんじゃないかと思っています。
3年生のとき、僕はマネージャーを任されました。
うまくならなかった部員が、です。
なぜ僕だったのか。ここでは、その理由を決めつけないでおきます。
ただ、事実として、3年間いた部の最後の年に、僕は役目をもらいました。
中学のときの僕は、うまくならないものは、やめるものだと思っていました。
高校の僕は、うまくならないまま、そこにいました。そして、役目が回ってきました。
うまくなることと、そこにいること。この2つは、別のものなのかもしれません。
試合で目立つ人だけが、部を支えているわけではない。マネージャーという役目は、そのことを、うまくならなかった僕に教えてくれる係だったのかもしれません。
コートの真ん中で活躍する部員ではなかったけれど、3年間ずっと同じ体育館にいたことが、最後の年にマネージャーという形で返ってきたんだとしたら、あの3年間は、上手にならなかったわりには、ちゃんと何かを積み上げていたのかもしれません。
一度やめたものに戻るのは、少しかっこ悪い気がします。
「前にやめたのに、また?」と、自分でも思ってしまう。
でも、僕は戻りました。それも、前向きな決意があったわけではなく、なんとなく、です。
立派な理由がなくても、戻っていい。むしろ、なんとなくくらいのほうが、肩に力が入らなくて、長く続くこともあるのかもしれません。
なんとなく戻って、なんとなく続いて、気づいたら3年目で、マネージャーになっていた。
ゲームで言えば、一度電源を切ったゲームを、もう一度ニューゲームで始めたようなものです。
つまり、前にやめたことは置いておいて、新しい場所で、最初からやり直した、ということです。
戻ることは、負けを認めることではなくて、前の自分が置いていったものを、今の自分がもう一度拾いにいくことなんだと、今の僕は思っていて、高校の体育館に立った僕は、それを知らないまま、もうやっていました。
今の僕は、視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。
始めたのは31歳。運動が苦手だった僕が、です。
練習は、自分でやります。朝は4時半から6時のあいだに起きて、体を動かします。ガイドとつながるのは、本番の日です。
始めて半年ほどで出た初めての大会では、1位になりました。でも、その翌年、初めて出た海外の世界大会では、最下位でした。
雨の石畳で、2人乗りの自転車ごと転びました。ハンドルが曲がって、それを戻して、また走りました。ランでは、ガイドが足を痛めて、歩くように進みました。
それでも最後は、ガイドと2人で、笑ってゴールしました。
IRONMANは、2024年、2025年、2026年と、3回完走しました。
2026年9月のIRONMAN JAPANは、14時間43分54秒。PCクラス2位でした。
そして今も、11時間を切るという目標に、挑み続けています。
うまくなるのが先か、続けるのが先か。僕の場合は、ずっと、続けるのが先でした。
高校のバドミントン部で、うまくならないまま3年間いた僕と、今の僕は、どこか同じ形をしていて、あの体育館で聞いていたシャトルの音は、今の朝の暗い時間にも、どこかでつながっている気がします。
続けているのに、うまくならない。
それは、やめる理由になりそうに見えます。昔の僕も、そうでした。
でも、うまくならなくても、そこにいていいんです。そこにいるうちに、役目が回ってくることもあります。
そして、一度やめたものに、戻ってきてもいいんです。理由は、なんとなくでも。
もしあなたが、部活をがんばる子どもを見ている大人なら。うまくならない子が、それでも毎日そこに来ていることを、どうか小さなことだと思わないでください。
僕は、中学でバドミントンをやめて、高校でもう一度入って、うまくならないまま3年間いました。
そして今は、ガイドや仲間やシュクレに支えられながら、226kmを進んでいます。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
一度やめたあなたも、うまくならないあなたも、もしもう一度そのドアを開けたくなったら、開けてみてください。中学で一度閉めたドアを、高校でなんとなく開け直した僕が、その先の景色を少しだけ知っています。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。