「この仕事ができなくなったら、自分には何が残るんだろう」。そう考えて、こわくなったことはありませんか。
もしあなたが、「目が見えなくなったら、もう働けないのでは」と不安を感じているなら。
もしあなたが、視覚障害のある家族や友人の「これから」を心配しているなら。
もしあなたが、「見えなくてもできる仕事」を、具体的に知りたいなら。この記事は、あなたに向けて書きました。
僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしながら、ここ3〜4年は、年に50回前後、講演をしています。
講演で、よくもらう質問があります。「視覚障害のある人は、どんな仕事をしているんですか?」
ほかの人の事情を、僕が勝手に語ることはできません。でも、自分が歩いてきた道なら、話せます。今日は、その話です。
正直に書きます。見えにくくなっていく時期、僕自身が「もう、まともに働けない」と思っていました。
27歳のとき、僕は現場監督でした。仕事中に、天井の照明が虹色に見えました。緑内障でした。
治療を重ねても、進んでいきます。図面を見る仕事なのに、図面の細かい字が見えない。
確認が1回から2回、3回と増える。「早くしなきゃ」と思うほど、手が止まる。
そして31歳で視覚障害者になり、13年勤めた会社を、事実上クビになりました。
18歳で就職して、先輩たちにかわいがってもらって、初めて「自分の居場所ができた」と思えた場所でした。
あのとき、僕には「ゲームオーバー」の文字が見えていました。
つまり、仕事だけでなく、社会の中での自分の役目まで、ぜんぶなくなったと思っていた、ということです。
夜になるのがこわくて、眠るのもつらい時期でした。
でも、役目はなくなっていませんでした。形が変わっただけでした。
見えることを前提に組み立てられた仕事ができなくなっても、見えにくいことを前提にした仕事や、見えにくいからこそ届けられる仕事がちゃんとあったのに、僕はそれに気づくまで、少し時間がかかってしまいました。
会社を離れて、先がまっ暗だった僕に、相談していた方が言ってくれました。
「大学、行ってみたら?」
そのひとことで、僕は人生で初めて、大学受験をしました。鍼灸を学ぶ大学です。
子どもの頃の僕は、勉強がとても苦手でした。小学校の成績は、ほとんどが1か2。その僕が、30代で大学生です。人生、何が起きるか分かりません。
大学は、単位を1つ落とすと留年でした。毎日、必死でした。それでも、留年せずに卒業できました。
そして、国家資格を受けました。
鍼師と灸師は、不合格でした。あん摩マッサージ指圧師は、合格でした。3つ受けて、受かったのは1つです。
でも、その1つは、僕のセーブポイントになりました。
つまり、「自分は、まだ終わっていない」と、あとから何度でも思い出せる場所になった、ということです。
落ちた2つのことを数えるよりも、受かった1つのほうを見て、「やれば、できた」というその小さな事実を、僕は今でもずっと大事に持ち歩いています。
あん摩、マッサージ、指圧。そして、鍼と灸。
これらは、視覚障害のある人が、昔から活躍してきた仕事です。
手の感覚を、とても大切にします。指先で、体のこりや筋肉のようすを読み取っていく。目で見るより、手で感じる力がものを言う世界です。
僕は、競技と講演の道に進んだので、施術を本業にはしていません。資格を取っておいて、です。
それでも、大学で学んだ日々は、見えないことが不利になるどころか、手の感覚という強みがそのまま生きる仕事がこの世にはちゃんとあるのだということを、僕に体で教えてくれました。
今の僕を支えてくれている働き方が、アスリート雇用です。
競技を続ける選手を、会社が社員として迎えてくれる仕組みです。
僕は、5年契約の社員から始まりました。そのあと、期限のない契約の社員になりました。
目が見えにくくても、トライアスロンに挑み続けながら、会社の仲間として働けています。
あるとき、マネージャーから聞きました。同じ会社に、70歳のアスリートが入社した、と。
70歳です。僕なんて、まだまだ若手でした。
一度は「もう社会に自分の役目はない」と思った僕にとって、誰かに必要とされて、役目を持って働けるということは、お給料をもらえるという以上に、「自分はまだ社会の中にいていいのだ」という安心を、毎日少しずつ返してくれるものでした。
仕事は、お金のためだけのものではなく、自分の居場所を取り戻すことでもあるのだと思います。
視覚障害のある人が働く場所は、あん摩・鍼灸や、アスリート雇用だけではありません。ふつうの会社で働いている人もいます。
技術は、どんどん進んでいます。
こういうものを組み合わせれば、見えにくくてもできる仕事は、広がっています。
僕自身も、見えにくくなっていく時期、内勤に回って、見積もりや図面の仕事を続けました。
もうひとつ、僕の仕事になっているのが、講演です。年に50回前後、いろいろな場所で、自分の人生の話をします。
あん摩・鍼灸、アスリート雇用、会社での仕事、講演と、少し見わたしただけでもこれだけの道があって、中には講演のように、見えにくいからこそ伝えられることがそのまま仕事になるものまであります。
ここで、大事なことをひとつ。「視覚障害」とひとことで言っても、見え方は、人によってまったく違います。
僕はB2というクラスです。まったく見えないわけではありません。でも、細かいものを見るのはむずかしい。
光を感じない人もいます。視野の一部だけが見える人もいます。
見え方が違えば、得意なことも、合う働き方も変わります。だから、「視覚障害者の仕事は、これ」と、ひとつに決めることはできません。
僕が内勤に回って仕事を続けたのも、あの頃は本当に苦しかったけれど、今ふり返れば「見え方に合わせて、仕事の形を変えた」一例でした。
誰かに合った仕事が自分にも合うとはかぎらないけれど、できることとむずかしいことを分けて、あせらずに探していけば、自分に合う形は必ずどこかにあって、選べる道が人の数だけあるというのは、不安ではなく希望の話だと僕は思っています。
ここまで書いてきたことに、共通しているものがあります。僕の合言葉、「カギは工夫」です。
図面が見えにくくなったとき、僕は確認のやり方を変えました。
見えにくくてひとりではレースができないから、ガイドとロープでつながる形を選びました。
仕事も、まったく同じです。
「工夫」と言っても、特別なひらめきはいりません。僕の工夫は、もっと地味です。
もちろん、うまくいかないこともあります。僕も、鍼師と灸師には落ちました。
それでも、「できるか、できないか」ではなく「どうやったらできるか」と考えて、この形がダメなら次の形、と試しつづけているうちに、自分に合った働き方は少しずつ見えてきます。
最初から正解を当てなくていいのです。
もしあなたが、「見えなくなったら、もう働けない」と不安をかかえているなら、どうか覚えておいてください。
それは、昔の僕と同じで、たぶん思い込みです。
僕は、現場監督から視覚障害者になり、大学に入り直し、資格を取り、今は働きながら挑み続けています。道は、1本ではありませんでした。何度でも、作り直せました。
もし今、あなたや、あなたの大切な人が、見え方の変化に不安を感じているなら、どうか、ひとりでかかえこまないでください。
働き方を探すことも、誰かに相談することも、新しく学び直すことも、ぜんぶ立派な「1ミリの行動」で、僕の場合は、相談した人がくれた「大学、行ってみたら?」というたったひとことが、思ってもみなかった場所まで連れていってくれました。
あせらず、自分のペースで。あなたの一歩を、心から応援しています。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ僕が視覚障害になってから今日までの道のりを、16分の動画にまとめています。文章より、声のほうが届く日もあると思うから。よかったら、そばに置いておいてください。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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緑内障がわかった日から、見えなくなっていく中で挑み続けるまでを、YouTubeで1話ずつ動画にしています。
RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人