きょうだいと、比べられたことはありますか。
「お兄ちゃんは、できるのにね」。言ったほうは、軽い気持ちです。でも、言われたほうは、けっこう長く覚えています。
もしあなたが、きょうだいと比べられて育って、今も「どうせ自分は」と思ってしまうなら。
もしあなたが、きょうだいを育てていて、つい上の子と下の子を比べてしまうなら。
もしあなたが、教室で「できる子」と「できない子」の両方を見ている先生なら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
今日は、目の話ではありません。子どもの頃の、兄と僕の話です。
先に言っておきます。兄は、何も悪くありません。
僕には、2歳上の兄がいます。
勉強が、できる。運動も、できる。
いわゆる、文武両道です。
そして、弟の僕です。
勉強が、できない。運動も、できない。
見事に、両方でした。
小学校の通知表は3段階で、ほとんどが1か2。「3」がつくのは図工と音楽くらいで、それも、たまにです。
徒競走は、ビリか、ビリから2番目。プールでは、6年間、25メートルを泳ぎきれませんでした。
同じ家の中に、レベルがずっと上の人がいる。
つまり、いちばん近くにいる人が、いつも僕よりずっとできた、ということです。
同じ家で、同じ親に育てられて、同じごはんを食べているのに、どうしてこんなに違うんだろうと、子どもの僕は本気で不思議に思っていました。
この差には、まわりの大人も気づいていました。
兄と僕を見比べて、笑いながら、こう言うんです。
「お兄ちゃんは出来杉君だね。弟の隆くんは……のび太君かな」
その場にいた人は、みんな笑っていました。
いじめられた、という話ではありません。場がなごむ種類の冗談でした。言った人に、悪気はなかったと思います。
ただ、ひとつだけ言わせてください。
言った人は、たぶんもう覚えていません。言われた僕は、何十年もたった今、こうして記事に書いています。
……根に持っているみたいですね。持っています。少しだけ。
困ったのは、僕自身が、その評価に納得していたことです。
通知表も、徒競走も、プールも、全部が「のび太君」のほうを指していたので、言い返す材料が手元にひとつもなく、僕は心のどこかで「うん、そうだよね」とうなずいていました。
同級生にも、言われたことがあります。
「お兄ちゃんと似てないから、川で拾ってきた子か?」
川です。
なかなか、話が大きい。
聞いてきた同級生にも、悪気はなかったと思います。子どもは、思ったことをそのまま口に出します。
でも、聞かれたほうは、答えに困ります。
「拾われてないよ」と言ったところで、証拠がありません。
目の前には、何でもできる兄。その横に、小学1年のときに丸もうまく描けなかった僕。似ていないと言われれば、そのとおりでした。
「のび太君」は、まわりの大人たちから。「川で拾ってきた子」は、同級生から。
上の世代からも、同じ年の子からも、同じ向きの言葉が届いていたわけで、子どもの僕にとってそれは、もう誰かの意見ではなく、世の中の決まりごとのように聞こえていました。
そんな毎日の中で、僕はひとつの口ぐせを覚えました。
「どうせ、僕はのび太君だから」
この言葉、とても便利なんです。
やる前に、言っておく。すると、できなかったときに、あまり痛くない。
先に「どうせ」と言っておけば、HPが減りません。
つまり、失敗しても傷つかずにすむように、先に自分で予防線を張っていた、ということです。
予告しておいた失敗は、失敗ではなく「予定どおり」になります。子どもなりに考えた、身の守り方でした。
ただ、この言葉には、困ったところがありました。
言えば言うほど、そもそも、やらなくなるんです。
やらなければ、できないままです。できないままだから、また比べられる。比べられるから、また「どうせ」と言う。
自分を守るために覚えたはずの言葉が、気がつくと、自分を同じ場所に立たせ続けるいちばんの理由になっていて、そのことに当時の僕は、まったく気づいていませんでした。
「どうせ」は、勉強や運動だけの話では、終わりませんでした。
中学のとき、同じクラスに、好きな子がいました。いつも自分から声をかけてくれる子でした。
僕は、何も言えませんでした。
「どうせ、相手にされるわけがない」
聞いてもいないのに、自分で答えを決めて、自分で終わりにしました。
たたかう前に、「にげる」を選んでいたんです。
つまり、だめだと分かる前に、自分のほうから先にあきらめていた、ということです。
ひとことも伝えないまま、中学を卒業しました。
きょうだいと比べられたことが、全部の原因だとは思いません。もともとの性格も、あったと思います。
それでも、「自分は、できないほうの子だ」という思い込みは、通知表や運動会の日だけでなく、誰かを好きになるという、順位も点数もないはずの場所にまで、静かについてきました。
ちなみに、その人には、36歳のときに街で偶然会って、やっと気持ちを伝えました。今の妻です。23年かかりました。かかりすぎです。
そんな僕にも、続いたことがあります。
ひとつは、中学2年から入った農園部です。
部員は、僕だけでした。
なす、ゴーヤ、きゅうり、いも。育てた野菜は、家に持って帰って食べました。母は「よく育てたね」と言っていたと思います。
畑には、兄がいません。順位も、試合もありません。野菜は、僕を誰とも比べませんでした。
もうひとつは、ずっとあとの話です。
27歳で緑内障と診断され、31歳で視覚障害者になり、13年勤めた会社を離れました。そのあとに始めたのが、トライアスロンです。
最初は、25メートルも泳げませんでした。1キロ走ると、膝が痛くなりました。
でも、そこで比べる相手は、兄でも同級生でもありませんでした。昨日の自分です。
25メートル、泳げた。1キロが、少し長く走れるようになった。1ミリでも進んだら、その日は前進です。
誰かの横に並べられることのない場所で、昨日より少しだけ進むということを毎日くり返していたら、何をやっても続かなかったはずの僕が、気がつけば、やめずに続けていました。
ここからは、比べられた側だった僕からの、お願いのような話です。
子育ての専門家ではないので、正解は言えません。僕に言えるのは、自分の身に起きたことだけです。
逆に、うれしかった言葉もあります。
中学1年の通知表に、先生がこう書いてくれていました。
「係の仕事をよくやっていました。」
兄のことは、どこにも書いてありません。僕がやったことだけが、書いてありました。
30年たって読み返したとき、成績の数字よりもその一行のほうが強く残って、あの頃の僕にも、誰かと比べずに僕だけを見てくれていた大人がちゃんといたのだと、初めて知りました。
最後に、昔の僕と同じ場所にいる人へ。
正直に言うと、「どうせ」が、すっかり消えたわけではありません。
ただ、変わったことがあります。
レースでは、ガイドがとなりにいます。泳ぐときも、タンデム自転車をこぐときも、走るときも、誰かとつながっています。毎日の道は、盲導犬のシュクレと歩いています。
僕が、兄のようになったわけではありません。となりにいてくれる人が、増えただけです。
2026年9月には、ガイドと一緒に、226キロのIRONMAN JAPANを14時間43分54秒で完走しました。
比べられて育ったことは、ゲームオーバーではありません。
つまり、「できないほうの子」と言われたからといって、その先の道まで決まってしまうわけではない、ということです。
できるようになってから進むのではなく、できないまま、誰かにとなりにいてもらって進めばいいのだと、のび太君と呼ばれた子は、ずいぶん大人になってから知りました。
あなたの「どうせ」のとなりにも、いつか誰かが立ってくれますように。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。