「がんばれ」と言われるより、ただ、となりにいてほしい日はありませんか。
僕には、ありました。30代の、大学生のころです。
もしあなたが、盲導犬と一緒に学校へ通うことを考えているなら。
もしあなたが、盲導犬を連れた学生を、教室に迎える先生なら。
もしあなたが、いま、抱えるものが多すぎて手が足りないなら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。いまは、2頭目の盲導犬シュクレと暮らしています。
今日は、1頭目の盲導犬、デネブの話です。
出会いから引退までの物語は、前に別の記事で書きました。今日は、もっとせまい話をします。
デネブと、毎日、大学に通っていた。授業のあいだ、デネブは僕の足元にいた。
それだけの話です。
僕は31歳で、13年勤めた会社を離れました。緑内障で、図面が読めなくなったからです。
そのあと、筑波技術大学に入りました。人生で初めての大学です。
めざしたのは、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の国家資格でした。見えにくくなっても、自分の手でできる仕事を持ちたかったからです。
同級生は、みんな年下でした。
単位を1つ落とすと、留年です。
目は、少しずつ見えにくくなっていきます。
卒業したら、国家試験が待っています。
しかも、大学に入る前に始めたトライアスロンも、やめていません。
……抱えすぎです。
でも、どれも自分で選んだことでした。誰のせいにもできません。
回復する前に、次の敵が出てくる。そんな毎日でした。
つまり、ひと息つくひまもなく、次の課題がやってきた、ということです。
勉強と、試験の準備と、練習と、変わっていく目のことを、両手にいっぺんに持って歩いているようで、何かひとつ落としたら全部こぼれてしまいそうな毎日でした。
もうひとつ、困っていたことがあります。
外を歩くのが、こわかったんです。
駅のホームから、落ちそうになったことがありました。
もっと安心して、安全に歩きたい。盲導犬と暮らそうと決めた理由は、それだけです。
大学3年のとき、訓練センターでデネブを迎えました。
おとなしくて、かわいい子でした。
そして、とてもシャイでした。目を見ると、必ずそらします。
ところが、夕ごはんの1時間前になると、じっとこっちを見てきます。そのときだけは、そらしません。分かりやすい子です。
ケージの中で、よく変な顔もしていました。
盲導犬と歩くのは、僕も初めてでした。
訓練を積んできたのは、デネブのほうです。教わるのは、僕のほうでした。
目を合わせてくれないシャイな犬と、犬と暮らしたことのない30代の大学生が、その日から一緒に寝起きして、同じ道を歩くことになりました。
ここからが、今日いちばん書きたかったことです。
朝、デネブと家を出ます。
デネブと、大学へ向かいます。
教室に入って、席につきます。
授業のあいだ、デネブは僕の足元にいました。
授業が終わると、またデネブと帰ります。
これが、毎日でした。
雨の日も、試験の前の日も、同じです。デネブは「今日は休みます」とは言いません。だから僕も、休めません。……いい相棒です。
教室で何か特別なことが起きた、という話は書けません。記録に残っているのは、「足元にいた」ということだけだからです。
でも、僕にはそれがいちばん大事でした。
先生の話を聞いて、読みにくい教科書と向き合っているあいだ、机の下にはいつも同じ気配があって、それは昨日も今日も、たぶん明日も変わらないんだと思えることが、あのころの僕を落ち着かせてくれました。
当たり前のことを書きます。
デネブは、しゃべりません。
「がんばれ」も、「大丈夫だよ」も、言いません。
単位のことも、国家試験のことも、僕の目のことも、デネブは知りません。
たぶん、夕ごはんまであと何時間か、のほうが大事です。
デネブの仕事は、2つでした。
僕を、安全に歩かせること。
そして、毎日そこにいること。
僕にとってデネブは、セーブのできる場所でした。
つまり、そこに戻ればひと息つける、安心できる相手だった、ということです。
疲れているときに人が本当にほしいのは、立派な助言でも強い励ましでもなくて、昨日と同じ場所に今日もいてくれる誰かなのかもしれないと、僕は足元の犬から教わりました。
会社を離れたころ、僕には、朝起きても行く場所がありませんでした。
あのころほしかったのは、いい言葉ではなかったと思います。
ほしかったのは、2つです。
むずかしいものでは、ありません。でも、この2つがなかったころの僕は、朝、布団から出る理由を見つけられませんでした。
出かけていく先は、大学が用意してくれました。
無事に着くための足は、デネブが引き受けてくれました。
この2つがそろって、僕はやっと、毎朝ちゃんと家を出て、夕方ちゃんと帰ってこられるようになりました。
結果も書いておきます。
留年はしませんでした。4年で卒業しました。
国家試験は、あん摩マッサージ指圧師に受かりました。はり師ときゅう師は、落ちました。正直に書きます。
それでも、ゲームオーバーではありませんでした。
つまり、落ちた試験があっても、そこで僕の道が終わったわけではない、ということです。
あの4年間を通りぬけられたのは、僕のがんばりだけではなくて、毎朝待っていてくれる教室と、そこまで一緒に歩いてくれる1頭がいたからだと、いまは思っています。
ここは、盲導犬を迎える学校の方へ。
先に、おことわりです。受け入れの手続きや決まりは、学校や、盲導犬の協会によって違うと思います。だから、ここには書きません。
書けるのは、盲導犬と教室に通っていた本人としてのお願いだけです。
冷たくしたいわけではありません。安全のためです。
足元でおとなしくしているのは、それが仕事だからです。そっとしておいてもらえることが、いちばん助かります。
いま、僕はシュクレと一緒に、学校へ講演に行っています。
今度は学生ではなく、前で話す側です。シュクレは、僕が話しているあいだ、ぐっすり寝ています。
足元にいる犬も、教室での僕の役目も変わりましたが、盲導犬と一緒に学校の門をくぐって、足元に相棒を感じながら過ごすという形は、大学3年のあの日からずっと続いています。
デネブとは、約8年、一緒にいました。
その間、励ましの言葉は、ひとつももらっていません。
となりに、いてくれただけです。
いまは引退して、子犬のころに育ててくれた家庭で暮らしています。14歳のおじいちゃんです。いまも、会いに行きます。
あなたにも、そういう相手がいるかもしれません。特別なことは言わないけれど、いつもそこにいる人。あるいは、犬や猫。
そして、あなた自身が、誰かにとっての「となりにいる人」かもしれません。
うまい言葉を、探さなくて大丈夫です。
明日もそこにいる。それだけで、もう助けになっています。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
授業のあいだ足元にいてくれた1頭のことを思い出すたびに、僕は、誰かのとなりにただいるということが、どれだけ大きな仕事なのかを思います。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、盲導犬シュクレと一緒に学校・企業で講演しています。
テーマ:「挑戦」「障害理解」「盲導犬と歩む人生」「ダイバーシティ」
「見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける」——その旅の話を、そのままお届けします。
中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。