← 記事一覧に戻る
📅 2026.10.02(更新 2026.10.10) | RYU NAKAZAWA
🎤 講演

講演を始めた理由|人前で話すのが苦手だった僕が、2017年から9年続けている話

⏱ 約7分で読めます(3,898字)
IRONMAN JAPAN 2026の表彰ステージでインタビューを受ける中澤隆

「手を挙げて、みんなの前で発表してください」。子どもの頃の僕が、いちばん逃げ出したかった言葉です。

もしあなたが、人前で話すのが苦手なのに、話さなければいけない場面を抱えているなら。

もしあなたが、自分の経験なんて、誰かに聞かせるほどのものじゃないと思っているなら。

もしあなたが、頼まれごとを前にして、引き受けるか逃げるかで迷っているなら。

この記事は、あなたに向けて書きます。

僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。

講演を始めたのは2017年です。気がつけば、9年がたちました。ここ3〜4年は、年に50回前後、学校や企業や自治体に呼んでもらっています。

こう書くと、話すのが得意な人に見えるかもしれません。逆です。僕は、人前で話すことが、いちばん苦手でした。

📖 この記事の目次
  1. 目立つことが、こわい子どもでした
  2. 「話を聞かせてもらえませんか」と言われた日
  3. それでも、逃げなかった理由
  4. 苦手は、直すより、工夫でこえる
  5. 「勇気をもらいました」と言われた日
  6. いつも、過去の自分に向かって話している
  7. 教えに行ったのに、教わって帰る
  8. 9年、続けてこられた理由

目立つことが、こわい子どもでした

子どもの頃の僕は、何をやってもパッとしませんでした。

小学校の成績は、3段階でほとんどが1か2。運動会の徒競走は、ビリか、ビリから2番目。プールの25メートルは、小学校の6年間、一度も泳ぎきれませんでした。

そんな子が、教室で先生に当てられると、どうなるか。

頭が真っ白になります。声が小さくなります。早く終わってほしくて、机の木目をじっと見つめます。

当てられた瞬間に、僕のHPは、ほぼ0でした。

つまり、話しはじめる前から、もう力が残っていなかった、ということです。

中学のときは、好きな子に気持ちを伝えられませんでした。「どうせ相手にされない」と、言う前に自分で決めつけました。

失敗する前に逃げる。それが、あの頃の僕のいちばんの弱さでした。

だから今でも、マイクを握るたびに、手を挙げることもできなかったあの子が体育館のいちばん前に立っているなんて、と少し不思議な気持ちになります。


「話を聞かせてもらえませんか」と言われた日

きっかけは、トライアスロンでした。

僕は31歳で視覚障害者になりました。13年つとめた電気工事の会社も、事実上、辞めることになりました。

その苦しい時期に、トライアスロンに出会いました。少しずつ、大会で結果が出るようになりました。

すると、あるとき、こう言われたのです。

「中澤さんの話を、聞かせてもらえませんか」

正直に言います。うれしさより先に、とまどいが来ました。

僕の話なんて、人に聞かせるようなものだろうか。ずっと「パッとしない人間」だった僕が、集まってくれた人の前で、何を話せばいいのか。

それに、何より、こわかった。

人前で話すことは、僕にとってラスボスでした。

つまり、いちばんこわくて、いちばん避けて生きてきたこと、ということです。

レースのスタート前に胸の奥がきゅっとしまって足の裏が落ち着かなくなる、あの感じとまったく同じものが、「話してください」と言われた瞬間に、体の中へ戻ってきました。

手を挙げられなかった子どもは、まだ僕の中にいたのです。……しぶといですね。


それでも、逃げなかった理由

でも、そのとき僕は逃げませんでした。

理由は、ひとつだけです。トライアスロンが、僕にあることを教えてくれていました。

「一歩、踏み出してみると、何かが起こる」。

見えにくい目で、それでもスタートラインに立ってみたら、人生が動きました。

だったら、この「話してください」という一歩も、踏み出してみたら、何かが起こるかもしれない。

苦手だから、やらない。そうではなくて、苦手だけど、準備して、やってみる。

僕は、そちらを選びました。

子どもの頃に何度も「どうせ無理だ」と先に決めて逃げてきた僕が、このときだけは、こわい気持ちを抱えたまま「やります」と返事をしたのです。


苦手は、直すより、工夫でこえる

引き受けたものの、本番までは不安でいっぱいでした。

何しろ、僕はその場で考えて話すのが苦手です。急にお題をふられると、今でも頭が真っ白になります。アドリブで切り抜ける。そんなことは、できません。

だから、準備しました。人より準備しました。

「当日、なんとかしよう」という考えは、最初から捨てました。当日になんとかできないから、当日までになんとかしておく。それが僕の答えでした。

準備は、僕にとってのセーブです。

つまり、本番で頭が真っ白になっても、戻ってこられる場所を先に作っておく、ということです。

「その場で話すのが苦手」は、僕にとって、ただの事実です。直そうとしても、たぶん一生うまくなりません。だったら、得意なほうでうめる。準備した話なら、僕はちゃんと話せます。

苦手は、直すより、工夫でこえる。これは、目が見えにくくなってから、体で覚えてきた考え方でした。

初めての講演は、うまく話せた自信はなく、心臓は最後までばくばくしていましたが、準備してきたことだけは全部出しきった、とはっきり言える時間になりました。


「勇気をもらいました」と言われた日

その最初の講演のあと、僕の中で何かが変わりました。

話を聞いてくれた人が、僕のところに来て、声をかけてくれたのです。

「勇気をもらいました」

不意をつかれました。

僕が話したのは、自慢できる話ではありません。何をやってもダメだった子ども時代。目が見えなくなっていくこわさ。13年つとめた会社を辞めることになった悔しさ。逃げてばかりだった自分。

できれば、かくしておきたい話ばかりです。

その、かっこ悪い話が、誰かの役に立ちました。

顔は見えなくても、声ははっきり届きます。声には、うそがありません。その人は本当に、僕の弱さの話を聞いて、もう一歩進んでみようと思ってくれていました。

自分が味わってきた苦しさは、ただの苦しさで終わるものではなく、かくさずに正直に話したときに、はじめて誰かの心へまっすぐ届くものなのだと、僕はそのとき知りました。

弱さは、かくすと弱点になります。でも、先に出すと、力になります。知ってしまったら、もう、やめられませんでした。


いつも、過去の自分に向かって話している

9年続けてきて、僕の中に、ひとつの軸ができました。

僕はいつも、過去の自分に向かって話しています。視覚障害者になりたての頃の、あの僕です。

夜になるのがこわくて、誰にも言えないまま朝を待っていた僕。仕事を失って、これからどう生きていけばいいのか、まったく分からなかった僕。

あの頃の僕は、レベル1のまま、暗い道に立っていました。

つまり、何の道具も、何の自信も持っていなかった、ということです。

もし、あの僕が客席に座っていたら。何を聞かせてあげたら、ほんの少しだけ前を向けるだろう。そう考えながら話しています。

だから、きれいごとは言いません。かんたんに「大丈夫」とも言いません。苦しかったことは、苦しかったまま話します。そのうえで、こういう工夫で前に進めたよ、と伝えます。

会場には子どもも大人もいて、障害のある人もない人もいますが、その中の誰かはきっと、かつての僕のように何かに行きづまっていて、過去の僕に話しかけるように話せば、その人にも届くと信じています。


教えに行ったのに、教わって帰る

僕は、講演を「教える側」の仕事だと思って始めました。でも、続けるうちに分かってきました。

僕は毎回、どこかで教わっています。

ある日、子どもたちの前で話したときのことです。講演のあと、子どもたちが発表をする時間がありました。ある子が、友だちの発表を聞いて、こう言いました。

「ここが、とても良かったと思います。でも、ここをこうしたら、もっと良くなると思います」

まず、相手の良いところを認める。そのうえで、もっと良くなる方向を、いっしょに考える。大人でも、なかなかできません。……僕も、できていません。

僕には、その子の顔ははっきりとは分かりません。でも、声と言葉の選び方だけで、その子のかしこさが伝わってきました。

教える側のはずだった僕が、その日はしっかり教わって、「明日からの講演で、あの言い方を使わせてもらおう」と思いながら帰りました。

講演は、お金をいただく仕事です。でも、受け取っているのは、お金だけではありません。「教わる側」になれる時間を、月に何度ももらっています。


9年、続けてこられた理由

人前で話すのがいちばん苦手だった僕が、年に50回前後、マイクの前に立っています。

特別な才能の話ではありません。気合いの話でもありません。

「できるか、できないか」で止まっていたら、僕は最初の「話してください」で逃げていました。

でも、「どうやったら、できるか」と考えてみました。準備すればいい。弱さは先に出せばいい。過去の自分に向けて話せばいい。そうやって、ひとつずつ工夫を重ねてきました。

それに、自分の力だけでここまで来たわけでもありません。声をかけてくれた人がいます。聞きに来てくれる人がいます。足元には、いつもシュクレがいます。

9年たった今も、話す前の僕はレベル1のままです。

つまり、今でも毎回、心臓がばくばくしている、ということです。

それでも僕は、支えてくれる人たちの輪の中で、今日もどこかの会場のドアを開けて、ばくばくする心臓といっしょに、最初のひとことを話しはじめます。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。

もしあなたが今、苦手なことの前で迷っているなら。うまくやろうとしなくて大丈夫です。準備して、こわいまま、一歩だけ出してみてください。


📣 講演・研修のご依頼

視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体で講演しています。テーマは「挑戦」「障害理解」「ダイバーシティ」「盲導犬と歩む人生」。2017年から講演を続け、ここ3〜4年は年50回前後で登壇しています。盲導犬シュクレも一緒に伺えます。

講演料は5万円〜(内容・時間によりご相談ください)。ご相談はお問い合わせフォームからどうぞ。オンライン・対面どちらにも対応しています。

講演のご相談はこちら →

最後まで読んでくれて、ありがとうございます

中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。

📷 Instagramをフォロー ▶️ YouTubeを見る

新しい記事が出たら、メールでお知らせします。すぐ下のフォームから登録できます ↓

動画でも見られます:僕の人生を16分で

緑内障の診断からIRONMAN完走までを、16分の動画にまとめました。

▶ YouTubeで見る

💬コメント

この記事を書いた人|中澤隆(なかざわ りゅう)

視覚障害B2クラスのパラトライアスリート/講演家。盲導犬シュクレと暮らしています。27歳で緑内障と診断され、31歳でトライアスロンを始めました。アジア選手権で2年続けて1位(2015・2016年)、世界ランキング最高6位。あん摩マッサージ指圧師。

IRONMANは、2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月13日に14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。2017年から講演を続け、ここ3〜4年は年50回前後で登壇しています。

📚 ブログ記事一覧を見る / 🏠 中澤隆 公式サイト