「目が見えにくいんですけど、こんな僕でも、受け入れてもらえますか?」
指が少し震えるのを感じながら、僕はトライアスロン倶楽部に問い合わせを送りました。
もしあなたが、家にいる時間が増えるほど、不安だけが大きくなっていく毎日を過ごしているなら。
もしあなたが、やってみたいことがあるのに、「自分なんかが」と、たった1本の連絡を送れずにいるなら。
もしあなたが、誰かの挑戦を見て、理由もわからないまま涙が出たことがあるなら。
この記事は、あなたのためのものです。
僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害B2クラスのパラトライアスリートで、盲導犬シュクレと暮らしています。
今日は、僕のすべての始まりになった「テレビの夜」と、その先で待っていた、不思議な出会いの話をします。
僕の目の話は、27歳のある日から始まります。
当時の僕は、電気工事の現場監督でした。図面を見て、現場を回って、職人さんに段取りを伝える。嫌いじゃない毎日でした。
ある日、天井の照明を見たら、明かりのまわりが虹色ににじんで見えました。目がかすむ。頭も痛い。
病院で言われた病名は、緑内障でした。
最初の感想は、「へ〜、そんな病気があるんだ〜」。薬を飲めば治るんだろう、くらいに思っていました。……のんきすぎる。
「ヤバイ」に変わったのは、家に帰って、自分でパソコンで調べた夜です。
進行を遅らせることはできても、一度見えなくなった視野は、二度と戻らない。
お医者さんから告げられたときより、静かな部屋でその一文に自分でたどり着いてしまったあの夜のほうが、ずっと、ずっと怖かったのを覚えています。
目薬、飲み薬、手術も何度もしました。信じたかった。というより、信じるしかなかった。それでも、視力は少しずつ、確実に下がっていきました。
いちばん最初に困ったのは、仕事でした。
図面の細かい字が、だんだん読めなくなっていったんです。図面が見えない現場監督。想像できますか。
外の現場が難しくなって、仕事が変わりました。内勤で、見積もりや図面の仕事です。でも、そこでも同じでした。
1回で終わっていた確認が、2回、3回と増えていく。「早くしなきゃ」と焦るほど、なぜか手が止まる。
昨日できたことが、今日できない。これを毎日、自分の体で味わうのが、本当につらかった。
18歳から勤めた会社です。同じ高校の先輩たちにかわいがってもらって、心の底から「ここが自分の居場所だ」と思える場所でした。
その居場所で、自分の価値が静かにすり減っていくのを、誰にも言えないまま、ただ黙って見ているしかない時間でした。
そして31歳のとき、僕は視覚障害者になりました。
苦しかったのは、ここからです。いちばんつらかったのは、夜でした。
昼間は、まだいい。やることがあるし、人もいる。でも夜、部屋が静かになると、悪い想像ばかりが押し寄せてくる。
仕事は、いつまで続けられるんだろう。この先、ちゃんと生活していけるんだろうか。
そして、いちばん怖かったのが、これです。
眠って、明日の朝起きたら、もう何も見えなくなっていたら、どうしよう。
笑い話みたいに聞こえるかもしれませんが、考えれば考えるほど頭の中が暗い想像で埋まっていって、布団に入っても眠れない、眠るのが怖い夜が何日も続きました。
不安は、いったん転がり出すと、自分では止められません。毎晩、布団の中で、HPがじわじわ削られていきました。
つまり、眠るはずの時間に、気持ちだけがどんどん弱っていった、ということです。
あの頃の僕は、心の中で半分あきらめていたんだと思います。もう自分には、できることなんて残っていない、と。
そんな毎日の、ある夜のことです。何気なくつけていたテレビに、ある映像が流れてきました。
全盲の女の子が、トライアスロンをしている映像でした。
泳いでいる。自転車に乗っている。そして、走っている。
光も見えないはずなのに、水の中をまっすぐ進んでいく。風を切って走っていく。僕は画面の前で、動けなくなりました。
気づいたら、涙が出ていました。
なぜ泣いたのか、今でもうまく説明できません。でもたぶん、見えないことを言い訳にして半分あきらめかけていた自分を、その女の子に、まっすぐ見られたような気がしたんだと思います。
涙が止まらないまま、心の奥から、こんな声が湧いてきました。
「僕より見えない子が、やってる。僕は、まだ見えてる。だったら、僕にもできるかもしれない」
それまでの僕は、「見えなくなっていく」ことばかり数えていました。あの夜、初めて「まだ、できる」のほうを数えました。
名前も知らない女の子の、数十秒の映像。それが、僕の人生のスタートの合図になりました。
やろう、と決めたのはいいものの、すぐに壁にぶつかりました。
目が見えにくい僕は、誰かに教わらないと、練習の始め方すら分かりません。トライアスロンの倶楽部に入って、教わるしかない。
でも、ここで足がすくみました。
迷惑じゃないだろうか。「そういう人はちょっと……」と断られたら、どうしよう。
僕は昔から、失敗がすごく怖いタイプでした。中学生の頃は、好きな子に「どうせ相手にされない」と決めつけて、告白もできずに逃げたくらいです。
あのときの僕には、問い合わせの送信ボタンが、ラスボスに見えていました。
つまり、押すだけのことが、何よりこわかった、ということです。
それでも、あの女の子の泳ぐ姿が、頭から離れませんでした。ここで引いたら、テレビの前で涙を流したあの夜の自分に、嘘をつくことになってしまうと思ったんです。
だから、上手な言葉も完璧な準備もないまま、震える指で「こんな僕でも、受け入れてもらえますか?」とだけ書いて、思い切って送りました。
返事が来るまでの時間が、やけに長く感じました。
倶楽部から返ってきたのは、ひとことでした。
「大丈夫ですよ。」
あの一言で、閉じかけていたドアが、すっと開いた気がしました。あんなに怖かった一歩が、踏み出してみたら思っていたよりずっとあっさり受け止めてもらえて、あのとき勇気を出して問い合わせた自分を、今でも少しほめてあげたいと思っています。
ここからが、いちばん不思議なところです。
入った倶楽部で、何も分からない僕に、泳ぎも、自転車も、走りも、ゼロから教えてくれたコーチがいました。原田コーチです。
話していくうちに、僕は信じられない事実を知りました。
原田コーチは、あの夜テレビで見た、全盲の女の子のコーチだったんです。
最初に聞いたとき、頭が追いつきませんでした。
トライアスロンの倶楽部はたくさんあるのに、僕がたまたま問い合わせたひとつに、その人がいた。
偶然と言えば偶然ですが、テレビの中の点と、震えながら問い合わせた僕の点が、ずっとあとになってから一本の線でつながったあの瞬間を、僕は今でも運命としか呼べません。
原田コーチとは、そのあと何年も、一緒に世界を回りました。海外の大会を転戦して、アジア選手権では2年続けて1位になり、世界ランキングは最高で6位まで上がりました。
暗い部屋で布団にくるまっていた31歳の僕には、想像もできなかった景色です。
こう書くと、決めた瞬間に強くなったみたいですね。まったく、そんなことはありませんでした。
始めた頃の僕は、25メートルも泳げませんでした。走れば、1キロで膝が痛い。
ぶつかるかもしれない。転ぶかもしれない。迷惑をかけるかもしれない。やらない理由なら、いくらでも思いつきました。
そんなとき、自分にこう言い聞かせました。
「強くなるためじゃなくていい。まずは、今日を生きるためにやってみよう」
これが、思いのほか効きました。「明日は泳ぎに行く日だ」という予定がひとつあるだけで、あれほど怖かった夜が、少しだけ回復の時間になったんです。
つまり、不安を抱えたままでも、明日を待てるようになった、ということです。
25メートルを、まず2回続けて泳げるようになる。次は4回。膝が痛くても、昨日より100メートル長く走れた日は、それだけでうれしい。
そうやって少しずつ積み上げていったら、トライアスロンを始めて半年後、初めて出た大会で、1位になりました。
そのときのガイドが、原田コーチでした。テレビの女の子を支えていた人と一緒に表彰台に上がれたあの日のことは、今でも忘れられません。
原田コーチとの縁は、今も続いています。あの夜から始まった一本の線は、15年たった今も、ちゃんとつながったままです。
今の僕は、226キロのIRONMANを走るようになりました。盲導犬シュクレがいて、ガイドという仲間がいて、人前で話す仕事もあります。
不思議ですが、目が見えていた頃より、今のほうがずっと充実しています。スポーツは、僕に3つのものをくれました。外に出る理由と、仲間と、自分を責めない時間です。
僕の人生が変わったのは、僕が強かったからでも、根性があったからでもありません。
テレビの中の女の子に「まだできるかもしれない」と思わせてもらえたから。震えながら送った問い合わせに、「大丈夫ですよ」と返してくれる人がいたから。その先に、原田コーチがいたから。
だから、もし今あなたが動けない場所にいるなら、無理に大きな一歩を踏み出さなくていいです。
まずは、「あの人にできるなら、私にもできるかもしれない」と思える誰かを、見つけてみてください。テレビの中の人でも、SNSで見かけた人でも、この記事の中の僕でも構いません。
そして、ほんの少し勇気が出たら、誰かに「こんな僕でも、いいですか?」と聞いてみてください。怖いのは、送る瞬間だけです。
いつも「大丈夫ですよ」が返ってくるとは限らないけれど、勇気を出して送ったという事実は消えずに残って、ずっとあとで、思ってもみなかった誰かとつながる点になってくれると、僕は信じています。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
僕の人生は、名前も知らない誰かの挑戦に、変えてもらいました。だから今度は、僕が誰かの「テレビの夜」になりたいんです。
2026年9月13日、IRONMAN JAPANを完走しました(14時間43分54秒・PCクラス2位)。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。次の挑戦も、日々の練習やレースの様子を発信していくので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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緑内障がわかった日から、見えなくなっていく中で挑み続けるまでを、YouTubeで1話ずつ動画にしています。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人