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📅 2026.06.24(更新 2026.10.10) | RYU NAKAZAWA
💪 挑戦

6年間25メートル泳げなかった僕の、最初の半年|「できない」の中身は、まだ開けられていないだけ

⏱ 約8分で読めます(4,721字)
スイムを泳ぐパラトライアスリート中澤隆

もしあなたが、何年やってもできないことを、抱えているなら。

もしあなたが、何かを始めて3日で「向いてない」と思ったことがあるなら。

もしあなたが、「始めるには、もう遅すぎる」と思っているなら。

この記事は、あなたに向けて書いています。

僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。

今日は、25メートルの話をします。小学校の6年間、一度も泳ぎきれなかった25メートルの話です。

📖 この記事の目次
  1. 6年間、いつも途中で足をついた
  2. 31歳、何も持たないスタート
  3. やらない理由は、いくらでも作れた
  4. 「人に習う」という発想がなかった
  5. 「助けてもらう側」が、情けなかった
  6. 半年後、初めての大会で
  7. 記録より先に、生活が変わった
  8. 「できない」の中身は、まだ開けられていないだけ

6年間、いつも途中で足をついた

小学校のプールの授業。クロールで25メートル。

僕は、一度も泳ぎきれませんでした。1年生から6年生まで、6年間ずっとです。

いつも同じでした。壁を蹴る。腕を回す。5メートル、10メートル。

腕は動いている。なのに、体が前に進まない。

息を吸おうと顔を上げる。そのぶん体が沈む。口に水が入る。そこから先は、腕も足もばらばらです。

気づくと、足の裏に、プールの底のざらつきが触れている。立ってしまったら、そこで終わりです。

スタートの時点で、僕のHPはもう半分くらいしかありませんでした。

つまり、泳ぐ前から「今年もだめだろう」と思っていた、ということ。

顔を拭いて、まだ遠い反対側の壁を見る。水の中を歩いて戻るあいだの、あの時間の長さを、今でも覚えています。

プールサイドに上がると水を吸った水着が重くて、コンクリートの熱だけが足の裏に残り、毎年夏になると、その時間がまた同じようにやってきました。

……6年間、毎年きっちり同じ夏をくり返していたわけです。そこだけ真面目か。

ただ、今になって思うことがあります。

僕が泳げなかったのは、クロールでした。平泳ぎなら、たぶん、いけたかもしれない。

顔を上げるタイミングを、自分で決められる。進まなくなったら、ひと呼吸おける。そのやり方なら、向こうの壁まで行けた気がするんです。

でも、授業で測られていたのはクロールでした。測られ方が、ひとつしかなかった。

だから、僕の記録は「泳げない」でした。

平泳ぎを試す機会も、「こっちならどうですか」と言う発想も、当時の僕にはありません。

「泳げない子」という札が先に貼られて、その中身を、誰も、そして僕自身も、一度も開けてみようとしなかった、ということだと思います。


31歳、何も持たないスタート

時間は飛びます。31歳。

その年、僕は見える範囲が狭くなって、視覚障害者になりました。13年勤めた会社も、離れることになりました。

そして同じ年に、トライアスロンを始めています。

……いちばん足元が崩れた年に、いちばん遠いスポーツ。順番、おかしくないですか。

きっかけは、テレビでした。全盲の女の子が、トライアスロンをしている映像です。

画面の前で動けなくなって、気づいたら涙が出ていました。

「僕より見えない子が、やってる。僕は、まだ見えてる。だったら、僕もできるかもしれない」

始めた日の僕を、正直に並べてみます。

完全に、レベル1でした。

つまり、何ひとつ持っていない状態から始めた、ということ。

泳げるようになってから始めたんじゃなくて、25メートルで沈む体のまま、1キロで膝が痛くなる脚のまま、とりあえず水に入った、ただそれだけです。


やらない理由は、いくらでも作れた

とはいえ、決めてから動くまでが長かった。

頭の中は、「やらない理由」でいっぱいでした。

ぶつかるかもしれない。転ぶかもしれない。プールで人に迷惑をかけるかもしれない。

見えにくい自分を、受け入れてくれる場所なんてあるのか。笑われるんじゃないか。続かなかったら、もっと自分が嫌いになるんじゃないか。

リストは、いくらでも長くできました。しかも、どれも納得できる理由ばかり。たちが悪い。

あの頃の僕は、戦う前に「にげる」を選びかけていました。

つまり、やってみる前に、自分であきらめようとしていた、ということ。

でも、眺めているうちに気づきました。やらない理由は、全部「うまくいかなかったらどうしよう」という、未来の心配だったんです。

まだ起きてもいないことばかりを先回りして怖がって、僕は今日の自分の足を、ほかの誰でもない自分の手で止めていたんです。

だから、考え方をひとつだけ変えました。

「強くなるためじゃなくていい。誰かと比べるためでもなくていい。まず、今日を生きるためにやってみよう」

半年後のことは分からない。でも「今日プールに入る」なら、できる。

ゴールを遠くに置くと、足がすくむ。目標を「今日」まで引き寄せたら、急に動けるようになりました。


「人に習う」という発想がなかった

水に入りました。でも、僕のスイムは、小学6年生で止まったままです。

25メートルの途中で足をつく。あの状態から、一歩も動いていない。

それまでの僕には、ある選択肢がありませんでした。「できないことを、できる人に教わる」です。

できないのは自分のせい。だから自分でなんとかするしかない。ずっとそう思っていました。

……いや、それで19年なんとかならなかったんですけどね。

トライアスロンを始めた頃、「トータルイマージョンスイム」という泳ぎ方を、先生と1対1で習いました。

習ってみて、分かりました。僕がやっていたのは「泳ぐ」じゃなかった。「必死に水をかき回す」でした。

腕をどこに入れるか。どこで息を吸うか。どこで力を抜くか。

ひとつずつ直していくと、同じ水なのに、体の下の感触が変わっていきました。バタバタという音が減って、耳のすぐ横を水が流れる音になる。

そして、ある日。

顔を上げずに腕を回し続けていたら、指先が、硬いものに当たりました。25メートル先の壁でした。

立ち上がって振り返ると、自分が来た側が、ずいぶん遠くにありました。31歳。人生で初めて、クロールで25メートルを泳ぎきった日です。

あの壁は、僕の最初のセーブポイントになりました。

つまり、「ここまでは来られた」と、あとから何度でも思い出せる場所になった、ということ。

何かが劇的に変わったわけではないけれど、19年間ずっと自分の中にあった「泳げない」という前提は、その日を境に、事実ではなくなりました。


「助けてもらう側」が、情けなかった

僕の競技のことを、少しだけ説明させてください。

視覚障害B2クラスのトライアスロンは、ガイドと二人でひとつのチームになって進みます。

自分だけでは、泳げないし、走れない。弱音じゃなくて、ルールです。

レースの日は、スタートからゴールまで、ずっと誰かとつながっている競技なんです。

正直、最初は悔しかった。

電気工事の現場で13年。自分の手で図面を見て、自分の足で現場を歩いてきた人間です。

それが、人に頼らないとできないことが、ひとつ、またひとつと増えていく。

ロープを持ってもらうたびに、「迷惑をかけている」と思っていました。お礼を言いながら、自分が小さくなっていく気がしたんです。

でも、時間をかけて、その気持ちは少しずつほどけていきました。あるとき、はっきり気づいたんです。

助けてもらうって、弱さじゃない。一緒にゴールを目指す、対等なチームなんだ、って。

ガイドは僕の目になってくれる。そのかわり僕は、相手を信じて、同じ方向へ全力で進む。

考えてみれば、ガイドだって僕がいなければそのレースは走れないし、僕が信じて体をあずけるから、ロープはただのひもじゃなく、二人をつなぐ綱になるんです。


半年後、初めての大会で

そこからは、積み重ねの毎日でした。劇的な特訓も、根性論もありません。

25メートルが、50メートルに。50メートルが、100メートルに。

1キロで痛くなっていた膝で、少しずつ走れる距離が伸びていく。

昨日できなかったことが、今日ほんの少しできる。その繰り返しです。

そして、始めて半年ほどたった2012年。初めての大会に出ました。

その日は寒くて、スイムが中止になりました。バイクとランだけの大会です。

……ここまで25メートルの話をしておいて、泳いでないんかい。自分でもそう思います。

ガイドは、入った倶楽部で教えてくれていた原田コーチでした。

結果は、1位でした。

信じられませんでした。でも、自分の力だけでたどり着いた結果じゃありません。つながる輪の中で、支えられて届いた結果です。

ただ、あの半年を振り返っていちばん大きかったのは、順位でも賞状でもなく、もっと地味で、もっと深いところで、僕の毎日が変わっていたことでした。


記録より先に、生活が変わった

半年で起きた本当の変化は、3つあります。

ひとつめ。外に出る理由ができました。

見えにくくなってから、僕は家にこもりがちでした。夜になるのが怖かった。眠って、朝起きたら、もっと見えなくなっているんじゃないか。そう思うと、布団に入るのが怖い夜がありました。

でも、「今日は練習がある」という予定が、僕を外に連れ出してくれました。不安を抱えたままでも、予定がひとつあるだけで、人は外に出られるんです。

ふたつめ。仲間ができました。

見えにくくなったら、人とのつながりは減っていく。そう思っていました。実際は、逆でした。ガイドと出会い、仲間と出会い、つながる輪がむしろ広がっていきました。

みっつめ。自分を責める時間が減りました。

「昨日できたことが、今日できない」。それまでの僕は、毎日それで自分を責めていました。

でもトライアスロンは、「積み上げる感覚」をくれました。昨日より1メートル長く泳げたら、それは前進です。

自分を責めるたびに減っていたHPが、少しずつ回復するようになりました。

つまり、心がすり減るばかりだった毎日が、少しずつ元気を取り戻せる毎日に変わった、ということ。

この3つは賞状には1文字も書かれていないけれど、僕の人生を本当に立て直してくれたのは、1位という結果より、こっちのほうでした。


「できない」の中身は、まだ開けられていないだけ

僕の「泳げない」の中身は、こうでした。

開けてみたら、「才能がない」は、ひとつも入っていませんでした。

もし今、何年やってもできないことを抱えているなら。始めたばかりで「全然できない」と落ち込んでいるなら。

始めた日の自分は、人生でいちばん下手な自分です。当たり前です。まだ何も積み上がっていないんだから。

それは「ダメな自分」じゃなくて、「スタートに立った自分」です。

比べる相手は、隣にいるすごい人じゃなくていい。昨日の自分だけでいい。

何年できなくても、それはゲームオーバーではありません。

つまり、終わったわけではなく、まだ途中にいるだけ、ということです。

そして、頼ることを弱さだと思わないでください。僕の25メートルを開けてくれたのが、教えてくれた人だったように、あなたの「できない」を一緒に開けてくれる人も、きっとどこかにいます。

小学校で貼られた「泳げない子」という札だって、僕は31歳ではがすことができたのだから、遅すぎるということは、たぶん、ありません。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。

25メートルの途中で立っていた日の僕も、今日のあなたも、まだ途中です。焦らなくていい。今日の1ミリを、一緒に積んでいきましょう。


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