みんなができることが、自分だけできなかった日はありませんか。
あるいは、いま、わが子がその場所にいるのを、そばで見ていませんか。
もしあなたが、「だれでもできること」ができないお子さんを、心配している保護者の方なら。
もしあなたが、昔、そういう子どもだったなら。
もしあなたが、教室でそういう子を見ている先生なら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
今日は、目の話ではありません。
丸の話です。
小学1年のとき、僕は丸がうまく描けませんでした。描けるようになるまで、1年ほどかかりました。
小学1年生のときです。
授業で、ノートに丸を描く時間がありました。
ただの丸です。鉛筆をくるっと回せば、終わるはずの形です。
それが、描けませんでした。
ノートの上に、丸ではない何かが、どんどん増えていきました。
小学校の、入り口です。僕はレベル1のまま、先へ進めませんでした。
つまり、いちばん最初の、いちばんやさしいはずの課題で止まってしまった、ということです。
どうして描けないのか、理由を考えたわけではありません。小さな僕の頭の中にあったのは、「なんで、みんなは描けるんだろう」という、たったひとつの疑問でした。
まわりの子は、丸を描き終えて、次の課題に進んでいきます。
僕は、まだ丸です。
結局、僕だけ、教室に残されました。
クラスの中で、僕だけです。
丸で、居残りです。
いま字にすると、少し笑ってしまいます。でも、当時の僕は笑えませんでした。
窓の外が、だんだん夕方の色になっていきます。
みんなが帰っていく音がします。そのあと、教室が静かになります。
心細かったことを、いまも覚えています。
置いていかれた。そう感じました。
机の上にはゆがんだ線でいっぱいのノートがあって、まわりの席はもう空っぽで、その景色の中で僕は、自分はほかの子と同じようにはできないらしいということを、誰に言われるでもなく覚えていきました。
子どものころの僕には、口ぐせがありました。
「どうせ僕には無理だから」
この口ぐせが生まれたのは、たぶん、あの夕方の教室です。
丸が描けるようになったのは、たぶん、小学2年のときです。
1年ほど、かかったことになります。
学校で最初に出された課題に、まるまる1年です。
ただ、ひとつだけ言えることがあります。
その1年のあいだ、僕は丸をやめていません。
えらかったわけではありません。「にげる」という選択が、そもそも頭に浮かばなかったんです。
つまり、やめるという考えを、思いつきもしなかった、ということです。
ゆがんだ線を描いて、直す。また描いて、直す。それを、たぶん1年続けました。
見ている人は、いません。拍手も、ありません。
いま僕は、朝4時半から6時のあいだに起きて、練習をしています。誰も見ていない時間に、小さなことをくり返して、少しずつしか進まない練習です。
大人になったいまも、僕は毎朝、うまく描けない丸を、昨日よりほんの少しだけましに描こうとしている小学1年生と、同じことをしているのかもしれません。
困ったことが、ひとつあります。
その1年のあいだのことを、僕はまったく覚えていません。
いつ、描けたのか。
ある日とつぜん描けたのか。少しずつ形になっていったのか。
何も、出てきません。
覚えているのは、描けなくて教室に残った日のことだけです。
描けた日のほうは、セーブされていませんでした。
つまり、できるようになった日のことは、記憶にまったく残っていない、ということです。
覚えておきたいほうが消えて、忘れたいほうが残る。記憶は、こちらの都合を聞いてくれません。
もし、あの教室の僕に声をかけられるなら、こう言います。
「大丈夫。来年のいまごろは、描けているから」
たぶん、信じません。「どうせ僕には無理だから」と返されます。
子どもは、できなかった日を自分の中にしまって、できた日のほうはあっさり忘れてしまうので、できた日が残る場所は、もしかすると、そばで見ていた大人の記憶の中だけなのかもしれません。
正直に書きます。丸は、始まりでした。
小学校の通知表は3段階で、ほとんどが1か2。3がつくのは、図工と音楽くらいで、それも、たまにでした。
同級生にも、まわりの大人にも、「のび太君」と呼ばれていました。みんな、笑っていました。
運動も、同じです。徒競走は、ビリか、ビリから2番目。25メートルも、泳げませんでした。
九九が、覚えられませんでした。夏休みに、母と特訓しました。
「もう一回、いってみようか」
母のその声で、また最初から言い直しました。
小学5年からは、家庭教師の先生が来るようになりました。それは、高校を卒業するまで続きました。
いま思えば、学ぶことに何か苦手な特性が、あったのかもしれません。
でも、診断は受けていません。だから、「そうだった」とは書きません。
書けるのは、「いま思えば、そうだったのかもしれない」まで。そこが、僕に言えるいちばん正直な線です。
なまけていたから描けなかったのではなく、やっても、やっても、丸にならなかったのだということだけは、あの教室にいた本人として、はっきり書いておきます。
あの夕方、僕は、丸とふたりきりでした。
そして、ひとつ知らないことがありました。
できないことは、となりの人に手伝ってもらっていい。
これを知るのは、ずっとあとです。
27歳で、緑内障と診断されました。目が、少しずつ見えにくくなっていきました。
みんなが当たり前にできることが、自分にはできない。その場面が、もう一度やってきました。
でも、この感じには、覚えがありました。小学1年の教室で、もう知っていたからです。
そしていま、レースのとき、僕のとなりにはガイドがいます。
となりに人がいると、HPは回復します。
つまり、自分だけで抱えなくていいから、先へ進める、ということです。
見えにくくなってからの僕を下から支えていたのは、うまくいった日の記憶よりも、うまくいかないまま鉛筆を動かし続けたあの1年のほうで、そこに、あとからとなりに立ってくれた人たちの手が重なって、いまの僕になっています。
僕は、医者でも、先生でもありません。専門の助言は、できません。
言えるのは、自分の人生にあったことから、3つだけです。
3つとも、特別な方法ではありません。待つこと。覚えておくこと。となりにいること。それだけです。
できないのは、なまけているから、とは限りません。
ゆっくりなことと、ずっとできないことは、別です。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
丸に1年かかった子どもは、そのあとも何度も立ち止まりながら、そのたびに誰かにとなりにいてもらって、いまも、少しずつ先へ進んでいます。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。