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📅 2026.10.30 | 著者:中澤隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2のパラトライアスリート
📖 物語・哲学

丸がうまく描けない子どもでした|小学1年で居残り、描けるまで1年かかった僕から、保護者の方へ

⏱ 約6分で読めます(3,087字)
ガイドと並走するパラトライアスリート中澤隆

みんなができることが、自分だけできなかった日はありませんか。

あるいは、いま、わが子がその場所にいるのを、そばで見ていませんか。

もしあなたが、「だれでもできること」ができないお子さんを、心配している保護者の方なら。

もしあなたが、昔、そういう子どもだったなら。

もしあなたが、教室でそういう子を見ている先生なら。

この記事は、そんなあなたに向けて書きます。

こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。

視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。

今日は、目の話ではありません。

丸の話です。

小学1年のとき、僕は丸がうまく描けませんでした。描けるようになるまで、1年ほどかかりました。

📖 この記事の目次
  1. 小学1年、ノートに丸を描く時間
  2. 僕だけ、教室に残った
  3. 描けるようになったのは、たぶん小学2年
  4. できなかった日のほうを、覚えている
  5. 丸のあとも、続いた
  6. あの教室で、まだ知らなかったこと
  7. 保護者の方へ、僕から言えること

小学1年、ノートに丸を描く時間

小学1年生のときです。

授業で、ノートに丸を描く時間がありました。

ただの丸です。鉛筆をくるっと回せば、終わるはずの形です。

それが、描けませんでした。

ノートの上に、丸ではない何かが、どんどん増えていきました。

小学校の、入り口です。僕はレベル1のまま、先へ進めませんでした。

つまり、いちばん最初の、いちばんやさしいはずの課題で止まってしまった、ということです。

どうして描けないのか、理由を考えたわけではありません。小さな僕の頭の中にあったのは、「なんで、みんなは描けるんだろう」という、たったひとつの疑問でした。


僕だけ、教室に残った

まわりの子は、丸を描き終えて、次の課題に進んでいきます。

僕は、まだ丸です。

結局、僕だけ、教室に残されました。

クラスの中で、僕だけです。

丸で、居残りです。

いま字にすると、少し笑ってしまいます。でも、当時の僕は笑えませんでした。

窓の外が、だんだん夕方の色になっていきます。

みんなが帰っていく音がします。そのあと、教室が静かになります。

心細かったことを、いまも覚えています。

置いていかれた。そう感じました。

机の上にはゆがんだ線でいっぱいのノートがあって、まわりの席はもう空っぽで、その景色の中で僕は、自分はほかの子と同じようにはできないらしいということを、誰に言われるでもなく覚えていきました。

子どものころの僕には、口ぐせがありました。

「どうせ僕には無理だから」

この口ぐせが生まれたのは、たぶん、あの夕方の教室です。


描けるようになったのは、たぶん小学2年

丸が描けるようになったのは、たぶん、小学2年のときです。

1年ほど、かかったことになります。

学校で最初に出された課題に、まるまる1年です。

ただ、ひとつだけ言えることがあります。

その1年のあいだ、僕は丸をやめていません。

えらかったわけではありません。「にげる」という選択が、そもそも頭に浮かばなかったんです。

つまり、やめるという考えを、思いつきもしなかった、ということです。

ゆがんだ線を描いて、直す。また描いて、直す。それを、たぶん1年続けました。

見ている人は、いません。拍手も、ありません。

いま僕は、朝4時半から6時のあいだに起きて、練習をしています。誰も見ていない時間に、小さなことをくり返して、少しずつしか進まない練習です。

大人になったいまも、僕は毎朝、うまく描けない丸を、昨日よりほんの少しだけましに描こうとしている小学1年生と、同じことをしているのかもしれません。


できなかった日のほうを、覚えている

困ったことが、ひとつあります。

その1年のあいだのことを、僕はまったく覚えていません。

いつ、描けたのか。

ある日とつぜん描けたのか。少しずつ形になっていったのか。

何も、出てきません。

覚えているのは、描けなくて教室に残った日のことだけです。

描けた日のほうは、セーブされていませんでした。

つまり、できるようになった日のことは、記憶にまったく残っていない、ということです。

覚えておきたいほうが消えて、忘れたいほうが残る。記憶は、こちらの都合を聞いてくれません。

もし、あの教室の僕に声をかけられるなら、こう言います。

「大丈夫。来年のいまごろは、描けているから」

たぶん、信じません。「どうせ僕には無理だから」と返されます。

子どもは、できなかった日を自分の中にしまって、できた日のほうはあっさり忘れてしまうので、できた日が残る場所は、もしかすると、そばで見ていた大人の記憶の中だけなのかもしれません。


丸のあとも、続いた

正直に書きます。丸は、始まりでした。

小学校の通知表は3段階で、ほとんどが1か2。3がつくのは、図工と音楽くらいで、それも、たまにでした。

同級生にも、まわりの大人にも、「のび太君」と呼ばれていました。みんな、笑っていました。

運動も、同じです。徒競走は、ビリか、ビリから2番目。25メートルも、泳げませんでした。

九九が、覚えられませんでした。夏休みに、母と特訓しました。

「もう一回、いってみようか」

母のその声で、また最初から言い直しました。

小学5年からは、家庭教師の先生が来るようになりました。それは、高校を卒業するまで続きました。

いま思えば、学ぶことに何か苦手な特性が、あったのかもしれません。

でも、診断は受けていません。だから、「そうだった」とは書きません。

書けるのは、「いま思えば、そうだったのかもしれない」まで。そこが、僕に言えるいちばん正直な線です。

なまけていたから描けなかったのではなく、やっても、やっても、丸にならなかったのだということだけは、あの教室にいた本人として、はっきり書いておきます。


あの教室で、まだ知らなかったこと

あの夕方、僕は、丸とふたりきりでした。

そして、ひとつ知らないことがありました。

できないことは、となりの人に手伝ってもらっていい。

これを知るのは、ずっとあとです。

27歳で、緑内障と診断されました。目が、少しずつ見えにくくなっていきました。

みんなが当たり前にできることが、自分にはできない。その場面が、もう一度やってきました。

でも、この感じには、覚えがありました。小学1年の教室で、もう知っていたからです。

そしていま、レースのとき、僕のとなりにはガイドがいます。

となりに人がいると、HPは回復します。

つまり、自分だけで抱えなくていいから、先へ進める、ということです。

見えにくくなってからの僕を下から支えていたのは、うまくいった日の記憶よりも、うまくいかないまま鉛筆を動かし続けたあの1年のほうで、そこに、あとからとなりに立ってくれた人たちの手が重なって、いまの僕になっています。


保護者の方へ、僕から言えること

僕は、医者でも、先生でもありません。専門の助言は、できません。

言えるのは、自分の人生にあったことから、3つだけです。

3つとも、特別な方法ではありません。待つこと。覚えておくこと。となりにいること。それだけです。

できないのは、なまけているから、とは限りません。

ゆっくりなことと、ずっとできないことは、別です。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。

丸に1年かかった子どもは、そのあとも何度も立ち止まりながら、そのたびに誰かにとなりにいてもらって、いまも、少しずつ先へ進んでいます。


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✍️ この記事を書いた人

中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。

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