思い出したくない日が、ありませんか。
何もうまくいかなくて、いちばん後ろでゴールした日。
もしあなたが、人前で大きな失敗をしたことがあるなら。
もしあなたが、初めての大きな舞台を前にして、足がすくんでいるなら。
もしあなたが、「助けてもらってばかりで、申し訳ない」と思っているなら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
今日は、初めての海外遠征の話です。
2013年9月、ロンドン。結果は、最下位でした。
僕がトライアスロンを始めたのは、31歳のときです。最初は、25メートルも泳げませんでした。
始めて半年ほどたった2012年4月、初めての大会に出ました。アジア選手権です。そこで、1位になりました。
2013年5月には、横浜の国際大会で2位。
そして、その年の9月。世界選手権のグランドファイナルに出ることになりました。会場は、ロンドンのハイドパークです。
初めての、海外でした。
ここで、僕の英語力を発表します。
読めません。書けません。しゃべれません。
何ひとつ、できません。
視覚障害のクラスは、ガイドと2人でレースをします。スイムはガイドとつながって泳ぎ、バイクは2人乗りのタンデム自転車、ランは並んで走ります。
レースのことなら、少しは分かってきたつもりでした。
でも海外では、僕はまたレベル1でした。
つまり、レースの外のことは、何もかも初めてだった、ということです。
アジアで1位になった経験を持って出かけた先は、看板の文字ひとつ読めない街で、僕はそこで、世界の選手たちと同じスタートラインに並ぶことになりました。
レースの前の日、コースで泳ぎました。
水温は、15度でした。
冷たかった。それしか言えません。
細かい様子までは、書けません。僕の記録に残っているのは、「15度」という数字です。数字だけで、じゅうぶん冷たいと思います。
前の年の初めての大会は、水が冷たすぎてスイムが中止になり、バイクとランだけのレースでした。
今回は、中止になりません。泳ぎます。
前の日に入ったあの水の冷たさを体に残したまま、僕は次の日の本番を迎えました。
本番です。
泳いでいる途中で、息が苦しくなりました。
過呼吸ぎみ、でした。
少し泳いで、止まる。
また少し泳いで、止まる。
止まって息を整えないと、先へ進めませんでした。
ここで、ひとつだけ書いておきたいことがあります。
僕が止まるたびに、ガイドも止まりました。
1回や2回ではありません。僕が止まった回数だけ、ガイドも止まっています。
知らない国の冷たい水の中で、自分の息のことだけでいっぱいになっていた僕のすぐ横に、僕と同じ回数だけ止まって、同じ回数だけ泳ぎ出してくれた人がいました。
次は、バイクです。
タンデム自転車は、2人乗りです。前の席にガイド。後ろの席に僕。僕は前が見えないまま、後ろで全力でペダルを踏みます。
ハンドルを切るのも、ブレーキをかけるのも、前の席のガイドです。僕は、前の人を信じて、足を回すだけです。
その日は、雨でした。
道は、石畳です。
タンデムが、転びました。
転んだ瞬間のことを、くわしく書くことはできません。記録にあるのは、4つです。雨。石畳。転倒。曲がったハンドル。
起き上がってみると、ハンドルが曲がっていました。
ハンドルを、まっすぐに戻しました。
そして、もう一度こぎ出しました。
転んだら、ゲームオーバー。そうはなりませんでした。
つまり、転んだことと、レースが終わることは、別だった、ということです。
ぬれた石畳の上で一度止まった2人乗りの自転車は、ハンドルをまっすぐに直されて、また雨の中へ出ていき、僕たちは次の種目が待っている場所まで、ちゃんとたどり着きました。
最後は、ランです。
今度は、ガイドのほうに問題が起きました。足を痛めていたんです。
走れません。
歩くくらいの速さで、前へ進みました。
ここでHPが減っていたのは、ガイドのほうでした。
つまり、今度は僕ではなく、ガイドが苦しい番だった、ということです。
スイムでは、僕が止まるたびに、ガイドが止まってくれました。
ランでは、足を痛めたガイドに合わせて、僕が歩きました。
さっきと、逆です。
それまでの僕は、レースの中で「待ってもらう人」でしかなかったのに、この日の最後の種目で初めて、となりの人の速さに合わせて「待つ人」にもなりました。
順位は、17位でした。
ゴールした選手の中で、いちばん後ろです。
前の年にアジアで1位だった僕が、世界に出たら、いちばん後ろでした。
もっとも、いちばん後ろなら、よく知っています。
子どものころの徒競走は、ビリか、ビリから2番目でした。経験は、こっちのほうが長いんです。
ちなみに、この最下位の話は、昔から講演でも話してきました。1位の話とならべて、かくさずに話します。
でも、ロンドンの最下位は、子どものころのビリとは違いました。
となりに、人がいたからです。
苦しいときに一緒に止まって、また一緒に進んでくれる人です。
息が続かなかったスイムと、石畳で転んだバイクと、歩くように進んだランをぜんぶ通りぬけて、ゴールに入ったとき、ガイドも僕も、笑顔でした。
トライアスロンを始めたころ、僕は、助けてもらうことが情けなかったんです。
20代の僕は、電気工事の現場監督でした。まわりから頼られる側にいました。それが、誇りでした。
目が見えにくくなって、31歳で、助けてもらう側になりました。それが、情けなかった。
ロンドンは、その考えを変えてくれました。
支えてもらうことと、誰かの役に立つこと。この2つは、どちらかを選ぶものではありませんでした。
ガイドがいなければ、僕は走れません。そして、僕が出なければ、ガイドがこのレースを走ることもありません。
上も下もなくて、2人で1組です。
そのあとも、僕はレースを続けました。グランドファイナルは、次の年が12位。その次の年が8位。世界ランキングは、最高で6位まで行きました。
オーストラリア、韓国、フィリピン、カナダ、アメリカ、オランダ。いろいろな国のレースに出ました。看板の読めない街へ、そのたびに、ガイドや仲間と一緒に出かけていきました。
1日で、回復したわけではありません。
つまり、結果は何年もかけて、少しずつ戻ってきた、ということです。
ロンドンの最下位は、僕にとってかくしておきたい傷ではなくて、相手が止まったら自分も止まるということも前へ進むやり方のひとつなんだと、初めて体で分かった日です。
あなたにも、あなたのロンドンがあるかもしれません。
転んだ日。いちばん後ろだった日。
それを、無理にいい話にしなくて大丈夫です。
ただ、ひとつだけ思い出してみてください。
あの日、あなたが止まったとき、となりで一緒に止まってくれた人はいませんでしたか。
そして、いつか誰かが止まったときには、あなたが、となりで止まってあげてください。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
いちばん後ろでゴールした日のことを、僕がいまも笑って話せるのは、冷たい水の中でも、ぬれた石畳の上でも、歩くように進んだ最後の道でも、となりにずっと同じ人がいて、あの線を2人でこえたからです。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、盲導犬シュクレと一緒に学校・企業で講演しています。
テーマ:「挑戦」「障害理解」「盲導犬と歩む人生」「ダイバーシティ」
「見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける」——その旅の話を、そのままお届けします。
中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。