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📅 2026.07.17(更新 2026.10.10) | RYU NAKAZAWA
📖 物語・哲学

「大学、行ってみたら?」の一言から始まった|行く場所がなかった31歳と、30代で初めての大学受験

⏱ 約7分で読めます(4,335字)

もしあなたが、働く場所をなくして、朝、天井を見たまま起き上がれずにいるなら。

もしあなたが、「もう、やり直すには遅すぎる」と思っているなら。

もしあなたが、落ち込んでいる人に、何と声をかけたらいいか迷っているなら。この記事は、あなたに向けて書きました。

僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害B2クラスのパラトライアスリートで、盲導犬のシュクレと暮らしています。

今日書くのは、31歳で会社を離れたあとの、いちばん暗かった時期の話です。そして、そこから30代で人生初の大学受験をすることになった、ひとことの話です。

📖 この記事の目次
  1. 十三年続いた朝が、消えた
  2. 十三年分が、置き場所をなくした
  3. 底で、僕がしたこと
  4. 「大学、行ってみたら?」
  5. 頭の中は、できない理由でいっぱい
  6. 地図に載っていなかった道
  7. 同じ立場の仲間がいる、という安心
  8. 僕も、あの一言を渡す側に

十三年続いた朝が、消えた

18歳から13年。僕は電気工事の現場にいました。現場監督の仕事です。

朝、決まった時間に起きる。決まった現場へ向かう。

頭の中は、いつも段取りでいっぱいでした。今日はどの階の配線か。職人さんとの打ち合わせは何時か。あの材料は、もう届いているか。

当たり前すぎて、考えたこともありませんでした。

でも、緑内障で、図面が読めなくなっていきました。できる仕事がひとつ、またひとつと減っていき、最後に「このまま続けるのは難しいよね」と言われました。

31歳。世の中では働き盛りと呼ばれる年齢で、僕は社会の中にあった自分の席を、まるごと失いました。

朝、目が覚めます。

カーテンのすき間から、明るさだけが入ってきます。天井の、同じところを見ています。

そして、思い出します。

今日、行く場所がない。

目が覚めてから、それを思い出すまでの数秒が、一日でいちばん長い時間でした。

布団から出る理由が、見つかりません。起きても、しなければならないことが、ひとつもない。

こたえたのは、時間が余っていることではありませんでした。

その時間の中で、自分が何の役にも立っていない、という感覚です。

今日、僕がいてもいなくても、世の中は同じように回っていくのだと思うと、自分という人間の輪郭が、日ごとに少しずつ薄くなっていくようでした。

会社にいた頃は、「中澤さん、これどうする?」と声がかかっていました。あの手ごたえが背中をまっすぐにしてくれていたんだと、なくしてから知りました。


十三年分が、置き場所をなくした

頭の中を、同じ問いが回っていました。これから、何を仕事にして生きていくんだろう。

電気工事は、もうできません。図面が読めないのですから。

最初は何ひとつ分からなかった僕が、先輩たちにかわいがってもらいながら、13年かけて覚えた仕事でした。僕の、たったひとつの自信でした。

31歳で、いきなりレベル1に戻された気分でした。

つまり、13年かけて身につけたものが、もう使えなくなった、ということ。

ほかの仕事を考えようにも、僕には電気工事しか分かりません。資格もない。

頭に浮かぶ仕事を並べてみると、そのほとんどが「見えること」を前提にしていました。書類を読む。画面を見る。車を運転する。

世の中の仕事の多くは見えることの上に建っていたんだと気づいたとき、長いトンネルの中で、出口の光がどこにも見えないような、背中のすっと冷たくなる感じがしました。

しかもこの時期、目はまだ進んでいる途中でした。

だから、会社にいた頃からずっと、夜がこわかった。眠って、朝起きたら、もう何も見えなくなっていたら。そう思うと、まぶたを下ろすのをためらいました。


底で、僕がしたこと

ここが、僕の人生でいちばんの底だったと思います。

何かに挑んで敗れたのなら、まだよかったのかもしれません。でも僕は、挑むより手前で、うずくまっていました。

ところが、底の底まで落ちると、人は案外じっとしていられないものでした。

このまま家にいたら、本当に終わってしまう。その焦りが、僕を人のほうへ向かわせました。

僕がしたことは、たったひとつです。

自分の頭の中だけで答えを探すのをやめて、人に相談した。

「これから、どうすればいいんでしょう」。いろんな方に、そう聞いて回りました。

何の答えも持っていないまま、助けてほしいと口に出す。昔の僕には、かっこ悪いことに思えました。

会社にいた頃は、見えなくなっていく苦しさを誰にも言えず、笑ってごまかしていた人間です。

でも底では、見栄を張る力すら残っていなかったからこそ、あのときの僕はやっと「助けてほしい」と言えたんだと思いますし、結果として、それが次の扉を開けました。


「大学、行ってみたら?」

相談に乗ってくれていた、ある方が言いました。

「大学、行ってみたら?」

正直、耳を疑いました。

その方にとっては、たぶん何気ない一言だったと思います。力を込めて言った言葉ではありません。会話の流れの中で、ふと出てきた。それくらいの軽さでした。

でも、その軽さが、ありがたかったんです。

重々しく「人生をやり直すべきだ」と言われていたら、きっと構えてしまって、動けませんでした。

あの言葉は、否定でも、同情でもありませんでした。「大変だったね」でも、「もう仕方ないね」でもない。ただの、まっすぐな提案でした。

いつもの僕なら、ここで「にげる」を選んでいたはずです。

つまり、「どうせ無理」と言って、話をそこで終わらせていた、ということ。

肩の力の抜けた「行ってみたら?」という言い方だったから、僕はその一言を押し返さずにすんで、心のすき間に、すっと入れておくことができたんだと思います。


頭の中は、できない理由でいっぱい

少し、学生時代の話をさせてください。

僕は、勉強がとにかく苦手でした。

小学校の成績は3段階で、ほとんどが1か2。3がついたのは、図工と音楽だけです。

小学1年のときは、丸がうまく描けなくて居残りをしました。九九は、夏休みに母にぴったりついていてもらって、やっと覚えました。

高校は、行きたかった園芸科には落ちて、工業高校にほとんど消去法で進みました。

大学受験なんて、別の世界の人の話だと、ずっと思っていました。

その僕が、30を過ぎて、目が見えなくなっていく途中で、大学を受ける。

頭の中には、きれいに、できない理由だけが並びました。

……並べるのだけは、得意でした。

それでも、あの言葉は、頭の中で何度も再生され続けて、どれだけ「無理だ」と打ち消しても、静かにそこに残っていました。


地図に載っていなかった道

会社を離れてから、毎日のように「これからどうしよう」と考えていました。でも、答えは出ませんでした。

今ならわかります。当たり前だったんです。

人は、自分の地図にない道は選べません。

これまで見たもの、聞いたもの、経験したもの。そこから作った地図の中だけで、必死に道を探してしまう。

僕の地図は、行き止まりだらけでした。その地図をどれだけにらんでも、新しい道は出てきません。

あの方は、僕の地図に載っていなかった道を、すっと指でさしてくれました。「こっちに、道があるよ」と。

その一言が残ってから、僕は初めて自分で調べました。

すると、視覚に障害のある学生が学びやすいように、環境を整えている大学があることを知りました。点字、音声、拡大した教材。見えない人、見えにくい人が学ぶための仕組みが、最初から用意されている場所です。

そこには、鍼灸を学ぶ学科がありました。鍼、お灸、あん摩マッサージ指圧。手の感覚と知識で、人の体を助ける仕事です。

その道は、僕が調べる前から、ずっとそこにあったのに、僕が知らなかっただけで、知らない道は、僕にとっては無いのと同じでした。

「無かった道」を「ある道」に変えたのが、あの一言です。

こうして僕は、30代で、人生初の大学受験に挑むことになりました。ここで落ちても、これ以上落ちるところはない。どん底にいたことが、かえって背中を押してくれました。


同じ立場の仲間がいる、という安心

大学で、いちばん救われたことがあります。

勉強の中身よりも、「同じ立場の仲間がいる」ということでした。

そこには、僕と同じように、見えにくさを抱えて学んでいる人たちがいました。同じ苦労を知っている。同じ工夫をしている。同じところでつまずいている。

職場では、見えにくさは「隠さなきゃいけないもの」でした。

でもその教室では、見えにくさはただ「みんなが持っているもの」で、誰もそれを特別扱いしなかったから、僕もはじめて、ずっと張りつめていた肩の力を、すっと抜くことができました。

説明しなくても、分かってくれる人がそばにいる。それだけで、世界はこんなに生きやすくなるのか。あの教室で、初めて知りました。

そして、長いあいだ忘れていた気持ちが、少しずつ戻ってきました。

「もう一回、ここから、やり直せるかもしれない」

「やり直せる」という確信ではありません。「やり直せるかも」という、小さな可能性です。それで十分でした。

30代で大学受験と聞くと、「いい歳して」と思う人もいるかもしれません。僕自身、最初はそう思っていました。でも、やり直しに年齢は関係ありませんでした。アラフィフになったいまも、僕がまだ挑み続けていられるのは、あのとき「人生がもう一度始まる」ことを、自分の体で知ったからです。


僕も、あの一言を渡す側に

僕は長いあいだ、自分のことを「自力でやってきた人間」だと思おうとしていました。

でも振り返ると、大事な場面には、いつも誰かがいました。

九九を覚えられなかった僕の隣には、母がいました。18歳で入った会社では、先輩たちが居場所をくれました。いちばん暗かった時期には、「大学、行ってみたら?」と言ってくれた方がいました。

僕が前に進めたのは、強かったからではありません。支えてくれる人たちの、つながりの中にいたからです。

だから今は、僕のほうが、誰かにとっての「その一言」を渡せる側でいたいと思っています。

講演で子どもたちの前に立つときも、頭の片隅にあるのはそのことで、今日ここで僕がふと口にする一言が、誰かの地図に、載っていなかった道を一本足すかもしれないと思っています。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。

もし今、あなたが、朝、行く場所のない天井を見ているなら。ひとつだけ、お願いがあります。

答えを、自分の頭の中だけで探さないでください。

あなたの地図にない道は、どれだけ考えても、あなたの中からは出てきません。でも、話してみた相手が、当たり前みたいな顔で「こっちに道があるよ」と指さしてくれることが、本当にあります。

あの頃の僕がいたのは、出口が「ない」場所ではありませんでした。まだ出口の光が「見えていなかった」だけの場所でした。あなたのいる場所も、きっとそうです。


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「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。

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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人