「もう、ここにはいられないよ」。そう言われたら、あなたならどうしますか。
もしあなたが、「これから働き続けられるんだろうか」と、眠れない夜をすごしているなら。
もしあなたが、障害のあるご家族の就職や転職を、一緒に考えているなら。
もしあなたが、会社の人事の担当として、障害のある社員とどう向き合えばいいか考えているなら。
この記事は、あなたに向けて書きました。
僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害B2クラスのパラトライアスリートで、盲導犬のシュクレと暮らしています。学校や企業での講演は、年に50回ほどです。
でも、最初からこの道にいたわけではありません。31歳のとき、僕は13年勤めた会社をクビになりました。今日は、そこから再就職までの7年を、そのまま書きます。
27歳で、緑内障と診断されました。
それから4年。31歳で、視覚障害者になりました。
それまでの13年間、僕は電気工事の現場監督として働いていました。
図面を読む。現場を回る。職人さんと話す。安全を管理する。
やりがいのある仕事でした。
でも、視覚障害になった僕に、会社はこう言いました。
「会社では、障害者は雇っていられない」
遠回しではありません。そのまま、言われました。
「雇っていられない」の「い」が、今でも耳に残っています。
怒りも、悲しみも、混乱も、いっぺんに来ました。
でも、いちばん強かったのは、こわさです。
人生がゲームオーバーになった、と思いました。
つまり、もう社会のどこにも、自分の居場所がないかもしれないと思った、ということです。
これを読んでいるあなたをおどかしたくて書いているのではなくて、こういうことが現実に起こりうるのだということを、言われた本人の言葉で、まず正直に伝えておきたかったのです。
クビになった僕は、まずハローワークに通いました。
求人を探す。相談員の方と話す。書類を出す。
でも、なかなか進みません。
「視覚障害」と書いたところで、書類が止まります。
気がつくと、夜になると居酒屋を回って、飲み歩くようになっていました。
昼はハローワーク。夜は酒。
……かっこいい話は、ひとつもありません。
自分をよく見せるつもりは、まったくありません。あの頃の僕は、本当に、どこへ進めばいいのか分からなかった。それだけです。
これが、2年続きました。
もし、あの頃の自分に声をかけられるなら、立ち止まっていていいから、迷っているということだけは、誰かひとりに正直に話してみてほしい、その人が次の扉を教えてくれるかもしれないから、と言いたいです。
そんな僕を変えてくれたのが、「たーとるの会」でした。
人生の途中で視覚障害になった人の、働くことを支える団体です。
これからの仕事について、当事者と支援者が一緒に考える場所でした。
正直に書くと、最初は行きたくありませんでした。
「自分は当事者じゃない」
「まだ自分でなんとかできる」
そう思っていたからです。
……2年間、なんとかできていなかったのに、です。
でも、ハローワークだけでは進まない。その現実を前にして、やっと相談に行きました。
そこで、知りました。
視覚障害になっても、学び直して、新しい資格を取って、働き続けている人たちが、こんなにたくさんいるのだということを、僕はこの場所で、初めて自分の目の前のこととして知りました。
僕の人生が変わったのは、このときです。
もし今、どこに相談していいか分からないなら、まず、地域にある中途視覚障害者の会や、相談の窓口を探してみてください。同じ立場の先輩が、必ずどこかにいます。
たーとるの会で、筑波技術大学という大学を知りました。
視覚に障害のある人が学べる、国立の大学です。社会人になってからでも、入り直せます。
33歳の僕は、「もう一度学ぶ」と決めました。
ここでも、正直に書きます。
僕が本当に行きたかったのは、情報の学科でした。
目が見えにくくても、パソコンやITの仕事で働ける時代になってきていたからです。
だから、まず情報の学科を受けました。
落ちました。
……決意して最初の一歩で、これです。
もう一度受けるか。別の道にするか。
考えて、鍼灸の学科を選びました。あん摩マッサージ指圧師の国家資格を目指せる学科です。
33歳の僕は、レベル1からのやり直しでした。
つまり、13年やってきた仕事とはまったく違うことを、一から学びはじめた、ということです。
「本当は情報に行きたかったのに」という気持ちは、今でも少し、複雑なまま残っています。
でも、第一希望がかなわなかったからといって人生が終わるわけではなくて、今ふり返ると、あのときしかたなく選んだ第二希望の道が、まちがいなく今の僕を作っています。
大学での4年間、国家資格を目指して学びました。
視覚障害になってから、「自分は、もう一度学べるんだ」と感じられたこと。これは、本当に大きな経験でした。
そして、大学3年のとき、次の扉を開いてくれる会社と出会います。
株式会社つなひろワールドです。
障害のあるアスリートの求人や雇用を支えて、マネジメントをしている会社です。
「あなたみたいに、競技をしながら働ける場所がありますよ」
そう教えてくれました。
その頃の僕は、トライアスロンを続けていて、アジア選手権で1位になるなど、競技でも結果が出はじめていました。
でも、競技は競技で、仕事は仕事だと思っていたので、そのふたつをひとつの働き方として組み合わせるという考えは、当時の僕の頭の中には、まったくありませんでした。
……教えてもらわなければ、ずっと知らないままだったと思います。
つなひろワールドを通して、いくつもの会社に応募しました。
現実は、きびしかったです。
年齢が高いので、書類選考で、だいたい落とされます。
視覚障害がある。年齢は30代の後半。職歴は、電気工事の現場監督から、鍼灸の学科の卒業。
……人事の方も、「どう採用すればいいんだろう」と困っていたはずです。
落ちるたびに、僕のHPは減っていきました。
つまり、「やっぱり自分は、社会で必要とされていないんじゃないか」という気持ちが、少しずつ強くなっていった、ということです。
面接まで進めたのは、ほんの少しです。
その少ないチャンスには、とにかく練習をして行きました。
志望動機を何度も書き直して、聞かれそうな質問と答えを用意して、声に出してくり返し練習して、緊張する手をにぎりしめながら会場へ向かった、あの頃の必死な自分のことを、今でもはっきり覚えています。
就職活動は、1年続きました。
そして僕は、サイネオス・ヘルス・ジャパン株式会社に、アスリート雇用で採用してもらいました。
これが、僕にとっての本当の再就職です。
僕の働き方は、こうです。
……こう書くと、楽そうに見えるかもしれません。
でも、競技で結果を出し続けないと、続かない世界です。
会社の期待に、競技でこたえる。それが、アスリート雇用です。
もし、会社の人事の方が読んでくださっているなら、アスリート雇用は寄付のようなものではなくて、会社にとっても、社員にとっても、社会にとっても、ちゃんと価値を生む仕組みなのだということを、当事者としてお伝えしたいです。
視覚障害になってから再就職までに、僕は、2年の失業と、4年の大学と、1年の就職活動を経験しました。
合わせて、7年です。短くはありません。
でも、あきらめなくてよかったと、心から思います。
最後に、4つだけ伝えさせてください。
「雇っていられない」と言われた31歳の僕に、今の僕が声をかけられるなら、君は終わりじゃない、道は遠いけれど、まちがいなく続いているよ、と伝えたいです。
あなたの道も、続いています。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
新しい記事が出たら、メールでお知らせします。すぐ下のフォームから登録できます ↓
緑内障がわかった日から、見えなくなっていく中で挑み続けるまでを、YouTubeで1話ずつ動画にしています。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、企業の人事・CSR・ダイバーシティ担当者向けに講演しています。
テーマ:「障害のある社員と共に働くとは」「アスリート雇用の本質」「ダイバーシティを戦力に変える」
「障害があるから雇用できない」を「障害があるから活躍してもらう」へ、当事者目線でお伝えします。
あなたの「働き続けたい」という気持ちが、必ず次の道に繋がりますように。
僕の物語が、少しでもあなたの背中を押せたなら、本当に嬉しいです。