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📅 2026.06.25(更新 2026.10.10) | RYU NAKAZAWA
🌱 視覚障害

70歳のアスリートがいると聞いた日|5年契約から無期契約へ、僕が「70歳まで挑戦」と決めた理由

⏱ 約6分で読めます(3,864字)
レース会場でタンデム自転車と中澤隆

もしあなたが、今の働き方に、先の見えない不安を感じているなら。

もしあなたが、「もう自分を必要としてくれる場所なんてない」と思いかけているなら。

もしあなたが、「もう歳だから」が口ぐせになりかけているなら。

この記事は、あなたに向けて書いています。

僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。

今日は、僕の働き方の話です。「アスリート雇用」という働き方と、ある日聞いた、70歳のアスリートの話をします。

📖 この記事の目次
  1. 13年の居場所が、静かに終わった
  2. 競技の結果が、思いがけず仕事につながった
  3. アスリート雇用という働き方
  4. 最初は、5年契約だった
  5. 不安は、行動の量で薄まる
  6. 期限のない契約になった日
  7. 70歳のアスリートがいると、聞いた
  8. 締め切りを決めるのは、年齢じゃない

13年の居場所が、静かに終わった

まず、ここから話さないといけません。

僕は18歳で、電気工事の現場の仕事に就きました。同じ高校の先輩たちにかわいがられて、毎日通うのが楽しかった。初めて「ここが自分の居場所だ」と思えた場所でした。

でも27歳で、緑内障と診断されました。

図面を見る仕事です。なのに、その図面の細かい字が、だんだん見えなくなっていく。

1回で済んでいた確認が、2回、3回と増える。「早くしなきゃ」と思うほど、手が止まる。

悔しくて、情けなくて、でも誰にも言えませんでした。「見えないんです」と打ち明けることが、なぜか、いちばん怖かったんです。

そして31歳。ある日、「このまま続けるのは難しいよね」と言われました。

事実上の、クビでした。

あの日、人生がゲームオーバーになった気がしました。

つまり、もう全部終わってしまったと思った、ということ。

13年間、ここが自分の居場所だと信じていた会社が、誰かが声を荒げるでもなく、ただ静かに終わっていって、怒りとも悲しみとも名前のつけられない気持ちだけが、ずっと胸に残りました。


競技の結果が、思いがけず仕事につながった

同じ年に、僕はトライアスロンを始めています。

テレビで、全盲の女の子がトライアスロンをしている映像を見たのがきっかけでした。

始めた頃は、25メートルも泳げませんでした。完全にレベル1です。

つまり、何ひとつできないところからのスタートだった、ということ。

それが、始めて半年ほどの初めての大会で、1位になりました。

そのあと、2015年と2016年には、アジア選手権で2年続けて1位。世界ランキングは、最高6位まで行きました。

もちろん、自分の力だけではありません。ガイド、コーチ、仲間。つながる輪の中で生まれた結果です。

トライアスロンを始めたあと、相談していた方の「大学、行ってみたら?」という一言で、大学にも入りました。鍼灸の学科で学んで、あん摩マッサージ指圧師の国家資格もとりました。

そして、競技の結果が、思いもしなかった形で、次の仕事につながっていきます。

「アスリート雇用」という枠で、会社に迎えてもらえることになったんです。

仕事を失ったことは、間違いなくピンチでしたが、そのピンチがなければ僕はトライアスロンにも大学にもアスリート雇用にもたどり着いていなくて、ピンチが次の扉の前まで連れてきてくれたんだと、今は思います。


アスリート雇用という働き方

「アスリート雇用」と聞いて、ピンとくる方は少ないかもしれません。

かんたんに言うと、競技を続けるアスリートを、社員として迎えてくれる働き方です。

会社の一員として働きながら、トライアスロンの競技も続けさせてもらう。会社に応援してもらって競技を続け、競技で得たものを、また会社や社会に返していく。そういう関係です。

競技を続けることも含めて、働く。それがアスリート雇用です。

大事なのは、「障害があるから雇ってもらう」のとは、少し違うということでした。

もちろん、視覚障害B2という僕の状況は、理解してもらった上での雇用です。でもそこには「このアスリートと一緒に、何かをやっていきたい」という気持ちがありました。

一度は「もう必要とされない」と思った僕が、お荷物としてではなく、仲間として「あなたが必要だ」ともう一度言ってもらえたことは、ただの就職以上の意味を持っていました。


最初は、5年契約だった

とはいえ、最初から安定していたわけではありません。

スタートは、5年契約の契約社員でした。

「5年」と聞いたとき、うれしさと同時に、正直、不安もありました。

一度クビになった経験があるぶん、その不安は、人より少し大きかったと思います。

夜、布団に入ってから「あと何年、ここにいられるんだろう」と考えてしまう日も、ありました。

……ちなみに、布団の中で何年数えても、契約の年数は1日も増えません。知ってた。

期限つきの働き方というのは、ありがたい一方で、いつも心のどこかでカレンダーの先を見つめてしまう、そういう先の見えなさも一緒に抱えることになるんですね。


不安は、行動の量で薄まる

でも、弱音を言い続けても、何も変わりません。

「5年後どうなるか」は、僕には決められない。

でも、「今日、何を積めるか」は、自分で決められる。

だから僕は、心配する代わりに、目の前の一日に集中することにしました。

今日の練習を、ちゃんとやる。今日の仕事を、できる形で、ちゃんとこなす。それを毎日くり返す。

「5年後どうしよう」と考えている時間は、HPが減っていくだけでした。

つまり、疲れるばかりで、何も前に進まない時間だった、ということ。

頼まれたことに、丁寧に向き合う。表情が見えにくいぶん、声と言葉でのやりとりを大切にする。派手なことはできなくても、それを続けました。

不安を消そうとするのではなく、目の前の行動で、不安が入ってくるすき間を少しずつ埋めていくことが、先の見えない不安に対する、いちばん確かな答えでした。


期限のない契約になった日

そうやって積み重ねていった結果、会社が僕の働きを評価してくれました。

そして、期限のない契約、無期契約の社員になりました。

「5年で終わるかもしれない」場所が、「ここにいていい」場所に変わった瞬間です。

ここは、僕にとって大きなセーブポイントになりました。

つまり、安心して、ここからまた次へ進める場所ができた、ということ。

もちろん、無期になったからといって、手を抜いていいわけではありません。

働いてみて学んだのは、「応援される」ということが、ただ気持ちのいいことではなく、責任でもある、ということでした。

会社は、時間をくれて、環境を整えてくれて、「がんばってこい」と送り出してくれます。その応援に、自分の生き方で応えていく。

だから僕は、朝4時半から6時のあいだに起きて、練習を積みます。

誰かが見ているからやるのではなく、応援してくれる人たちに恥じない自分でいたいからやるというのが、応援される側になった僕の、もらいっぱなしにしないための、自分なりの返し方です。


70歳のアスリートがいると、聞いた

ここからが、今日いちばん話したいことです。

無期契約になったあと、マネージャーから、こんな話を聞きました。

「同じ会社に、70歳のアスリートが入社した」

聞いた瞬間、正直、びっくりしました。

70歳。世の中のイメージでいえば、現役を退いて、ゆっくり過ごす年代かもしれません。

でもその方は、70歳でアスリートとして入社した。競技を続けながら働く、ということです。

僕はまだ、その方に会ったことはありません。話に聞いただけです。

それでも、その話を聞いたとき、胸の奥からじわじわと、ある思いが湧き上がってきました。

「年齢じゃなくて、どう生きるか、なんだな」

それまでの僕は、どこかで、挑戦の終わりを「年齢」で考えていました。アスリートとして挑めるのは、せいぜい何歳くらいまでだろう、と。

挑戦をやめる理由を年齢にしようとしていたのは、ほかの誰でもない僕自身で、カレンダーが「もう終わりだ」と言ってきたわけではなく、僕が勝手にカレンダーを見て、自分で線を引こうとしていただけでした。


締め切りを決めるのは、年齢じゃない

その日、僕は決めました。

「僕も、70歳まで挑戦を続けよう」

スポーツの世界には、大きな大会でメダルを手にして、そこで現役を退く人生もあります。それも、ひとつの素晴らしい生き方です。

でも僕が選んだのは、「人生現役」でした。記録のためだけではなく、生き方として、挑み続けること。

「その年齢で、まだ挑戦するの?」と言われることもあります。

でも、70歳でアスリートとして働く人がいる。そう思えば、僕はまだまだ通過点にいるだけです。

この決意は、自分を追い込むためのものではありません。むしろ、ふっと肩の力が抜けました。

締め切りがずっと先にあるなら、今日うまくいかなくても、明日また挑めばいいのだから、一度や二度つまずいても、焦ることはないんです。

もしあなたが今、期限つきの働き方に、僕と同じような不安を感じているなら。

一度居場所を失っても、人生は終わりません。不安な期間も、目の前のことを1ミリずつ積み重ねていけば、「期限なし」の安心に変わっていくことがあります。

そして、もしどこかで「もう歳だから」と思いかけているなら、ひとつだけ聞かせてください。その言葉は、誰かに言われたものですか。それとも、自分で自分に言い聞かせているものですか。

挑戦の締め切りを決めるのは、壁のカレンダーでも、年齢という数字でもなく、いつだって、あなた自身です。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。

あなたの挑戦の締め切りは、まだ誰にも決められていません。僕も、まだまだ途中です。一緒に、挑み続けましょう。


🌱 おなじ不安の中にいるあなたへ

僕が視覚障害になってから今日までの道のりを、16分の動画にまとめています。文章より、声のほうが届く日もあると思うから。よかったら、そばに置いておいてください。

▶️ 動画「目が見えないのに、226km。」 📖 27歳で緑内障と診断された日|およそ20年後の僕から、過去の自分に届けたい言葉

最後まで読んでくれて、ありがとうございます

中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。

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動画でも見られます:僕の人生を16分で

緑内障の診断からIRONMAN完走までを、16分の動画にまとめました。

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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
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