もしあなたが、通知表を見るのがこわかった子どもだったなら。
もしあなたが、胸を張れる進路を選べなかったと、どこかで思っているなら。
もしあなたが、お子さんの成績表を前に、ため息をついたことのある親御さんなら。この記事は、あなたに向けて書きました。
僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害B2クラスのパラトライアスリートで、盲導犬のシュクレと暮らしています。
今日は、講演でもいちばん最初に話す、僕の「スタート地点」の話をします。きらきらした成功談ではありません。むしろ、僕の人生でいちばん地味な話です。
僕は、勉強も運動も、全然できない子どもでした。
小学校の成績は、3段階で、ほとんどが1か2。
テストが返ってくるたびに、胸がギュッとなりました。
先生に名前を呼ばれて、答案を受け取りに行く。あのたった数歩が、いやでいやで仕方ありませんでした。
運動会の徒競走は、ビリか、ビリから2番目。
「位置について」の合図のたびに、もう結果が分かっている。みんなが応援してくれる中を、後ろのほうで走る。あの感覚は、今でもはっきり覚えています。
学校は、成績の数字と、走る速さで人を測る場所です。
その物差しの上で、僕はずっとレベル1のままでした。
つまり、何をやっても、下から数えたほうが早い場所にいた、ということ。
返ってきた数字が、そのまま「自分の値打ち」みたいに感じられて、誰に言われたわけでもないのに、僕は通知表を見ながら、自分で自分に低い点をつけて生きていました。
「どうせ無理」。
それが、僕がいちばん早く覚えた言葉だったかもしれません。
中学では、好きな女の子ができました。でも「どうせ相手にされない」と勝手に決めつけて、何も言えないまま終わりました。
僕は、戦う前に「にげる」を選ぶ子どもでした。
つまり、失敗して傷つくのがこわくて、挑戦する前に自分であきらめていた、ということ。
やる前から「どうせダメだ」と決めておけば、傷つかずにすむ。そうやって、心を守っていたんだと思います。
通知表の数字が教えてくれた「どうせ無理」は、勉強や運動だけにとどまらず、恋にも、進路にも、じわじわと染み出していって、いったん身につくと、人生のいろんな場面で顔を出してきました。
そんな僕が、高校を選ぶときの基準。
夢でも、希望でもありません。「これならできるかも」でした。
「あれも無理そう」「これも続かなそう」。できなさそうなものを一つずつ消していって、最後に「電気なら、なんとかついていけるんじゃないか」が残った。
工業高校の、電気科。消去法で残った場所、というのが本当のところです。
「将来これをやりたいから、この学科を選んだ」と胸を張れる同級生もいました。
夢で選んだ友だちがまぶしく見えて、消去法で残った道に進んだ自分が、どこか中途半端に思えて、当時の僕は、その選び方が少し恥ずかしかったんです。
でも、今は違います。たくさんの「無理」を引き算して、最後に残った「これならできるかも」に賭けた。それも、ちゃんとした選び方だったと思っています。
入ってみて、分かったことがあります。
1年生のときに15クラスあったのが、3年生になると11クラスに減る。そういう高校でした。
4クラス分の人数が、途中でいなくなる。気づくと、席が空いている。誰かが静かにいなくなっていく感じが、子ども心にも分かりました。
その高校では、「続ける」こと自体が、当たり前ではありませんでした。
得意科目で稼いで乗り切る、なんてことはできません。毎日通って、授業を受けて、実習をこなして、テストを受ける。一つずつ、なんとか食らいついていくしかなかった。
そして僕は、留年せずに卒業しました。
たったそれだけです。首席でもない。賞もない。誰かに褒められたわけでもない。
でも、「どうせ無理」が口グセだった僕が、クラスがいくつも消えていく場所で、自分の席に座り続けて、最後まで残りました。
あの卒業は、僕の人生で最初のセーブポイントでした。
つまり、「ここまでは、ちゃんとやれた」と、あとから何度でも思い出せる場所になった、ということ。
誰も褒めてくれなくても、僕だけは知っていて、それは「どうせ無理」と逃げてばかりだった僕が、はじめて「逃げなかった」と言える、小さくても確かな記録でした。
18歳で、電気工事の現場監督の仕事に就きました。図面を見て、現場をまわる仕事です。
正直、社会に出るのはこわかったです。「ここでもまた、できないやつだと思われるんだろうな」と。
でも、その会社には、同じ高校の先輩が3人いました。
その3人が、新入りの僕を、本当にかわいがってくれました。仕事を一から教えてくれて、失敗しても頭ごなしに怒らず、できるようになるまで何度でも付き合ってくれた。
「自分の居場所ができた」。そう思えたのは、生まれて初めてでした。
現場では、テストの点なんて誰も気にしません。見られるのは、現場をきちんと回せるか、頼まれたことを最後までやるか、です。
学校の物差しが世界のすべてじゃなくて、学校の物差しでは下のほうにいた自分でも、別の物差しの上ならちゃんと立っていられる場所がある、ということを、僕はあの現場で初めて知りました。
もし消去法で電気科を選んでいなかったら。もし留年せずに卒業していなかったら。この先輩たちにも、この居場所にも、出会えていませんでした。
ようやく見つけた居場所でしたが、そのあと、目の病気がやってきます。
27歳で緑内障と診断されました。図面の細かい字が、だんだん読めなくなっていきました。
31歳で視覚障害者になり、13年勤めたその会社を離れました。消去法で選んで、やっと手に入れた居場所が、静かに終わっていった。本当に悔しい時間でした。
31歳で、トライアスロンを始めました。きっかけは、全盲の女の子がトライアスロンをしているテレビの映像です。
最初は、25メートルも泳げませんでした。少し走れば、1キロで膝が痛くなる。徒競走でビリか、ビリから2番目だった子どもが、泳いで、漕いで、走るんですから。
そのあと、「大学、行ってみたら?」の一言に背中を押されて、人生で初めての大学受験もしました。単位をひとつ落とせば留年という中で、留年せずに卒業して、あん摩マッサージ指圧師の資格を取りました。
大学で必死だったあの頃、頭の中でくり返し聞こえていたのは、「あのとき留年せずに卒業できたんだから、今度も1日ずつなら続けられるかもしれない」という、高校時代の自分の声でした。
トライアスロンを始めた僕には、ひとつだけ得意なことがありました。
コツコツ続けることです。
25メートルが、50メートルになる。1キロで痛かった膝が、2キロ、3キロと走れるようになる。昨日より1ミリだけ、できることが増えていく。
始めるとき、受け入れてくれる倶楽部に問い合わせました。そこで出会ったコーチがいました。その方は、なんと、テレビで見たあの女の子のコーチでした。
始めて半年ほどで出た、初めての大会(2012年のアジア選手権)で1位。その後、2015年と2016年には、アジア選手権で2年続けて1位。世界ランキングは、最高6位まで行くことができました。
……徒競走でビリか、ビリから2番目だった子どもが、です。
才能がある人は、ぱっと結果を出して、まわりを驚かせます。僕には、それはできませんでした。
その代わりに僕が持っていたのは、派手じゃなくても消えていかない力で、一気に駆け上がれない分だけ一段ずつ積み上げていたら、いつのまにか、思ってもみなかった高さまで来ていました。
続ける力は、その瞬間には誰にも褒められません。でも、ずっとあとになって、人生のどこかで必ず効いてきます。僕の場合は、それがIRONMANのスタートラインでした。
通知表に、「続ける力」という科目はありませんでした。
徒競走に、「ガイドと信頼で走る」という種目もありませんでした。
僕の種目は、学校の外にあったんです。そして、その種目を一緒に走ってくれる仲間とも、学校の外で出会いました。
僕がここまで来られたのは、僕の力だけではありません。現場でかわいがってくれた先輩がいて、大学を勧めてくれた方がいて、テレビの女の子と、その子のコーチがいて、今も一緒に走ってくれる仲間がいる。たくさんの人に支えられて、ここまで来ました。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
もし君の通知表に、今、1や2が並んでいても。徒競走で、後ろのほうでも。
それは、「君がダメ」という意味じゃありません。
学校の物差しが、君の種目を、まだ測れていないだけです。
消去法で選んだっていい。「これならできるかも」は、立派なスタート地点です。
大事なのは、選んだあとに、自分の席に座り続けられるか。誰にも褒められなくていいし、地味でいいから、「留年せずに卒業する」みたいな自分だけの小さな誇りを、ひとつ守ってみてください。
僕の種目が始まったのは、31歳でした。だから、君のスタートが少し遅くても、まったく問題ありません。その「続けた」が、いつか君の種目につながっています。
2026年9月13日、IRONMAN JAPANを完走しました(14時間43分54秒・PCクラス2位)。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。次の挑戦も、日々の練習やレースの様子を発信していくので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人