← 記事一覧に戻る
📅 2026.06.22(更新 2026.10.10) | RYU NAKAZAWA
💪 挑戦

成績は1か2、徒競走はビリか、ビリから2番目|消去法で選んだ電気科から、世界ランキング6位までの話

⏱ 約6分で読めます(3,799字)
ガイドと伴走で走る中澤隆

もしあなたが、通知表を見るのがこわかった子どもだったなら。

もしあなたが、胸を張れる進路を選べなかったと、どこかで思っているなら。

もしあなたが、お子さんの成績表を前に、ため息をついたことのある親御さんなら。この記事は、あなたに向けて書きました。

僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害B2クラスのパラトライアスリートで、盲導犬のシュクレと暮らしています。

今日は、講演でもいちばん最初に話す、僕の「スタート地点」の話をします。きらきらした成功談ではありません。むしろ、僕の人生でいちばん地味な話です。

📖 この記事の目次
  1. 答案を受け取りに行く、あの数歩
  2. 「どうせ無理」が、最初に覚えた言葉
  3. 消去法で選んだ、工業高校の電気科
  4. 15クラスが、11クラスに減る場所で
  5. 18歳、初めての居場所
  6. それから、のこと
  7. 才能より、「続けた」があとから効く
  8. 学校の物差しは、君の種目をまだ測れていないだけ

答案を受け取りに行く、あの数歩

僕は、勉強も運動も、全然できない子どもでした。

小学校の成績は、3段階で、ほとんどが1か2。

テストが返ってくるたびに、胸がギュッとなりました。

先生に名前を呼ばれて、答案を受け取りに行く。あのたった数歩が、いやでいやで仕方ありませんでした。

運動会の徒競走は、ビリか、ビリから2番目。

「位置について」の合図のたびに、もう結果が分かっている。みんなが応援してくれる中を、後ろのほうで走る。あの感覚は、今でもはっきり覚えています。

学校は、成績の数字と、走る速さで人を測る場所です。

その物差しの上で、僕はずっとレベル1のままでした。

つまり、何をやっても、下から数えたほうが早い場所にいた、ということ。

返ってきた数字が、そのまま「自分の値打ち」みたいに感じられて、誰に言われたわけでもないのに、僕は通知表を見ながら、自分で自分に低い点をつけて生きていました。


「どうせ無理」が、最初に覚えた言葉

「どうせ無理」。

それが、僕がいちばん早く覚えた言葉だったかもしれません。

中学では、好きな女の子ができました。でも「どうせ相手にされない」と勝手に決めつけて、何も言えないまま終わりました。

僕は、戦う前に「にげる」を選ぶ子どもでした。

つまり、失敗して傷つくのがこわくて、挑戦する前に自分であきらめていた、ということ。

やる前から「どうせダメだ」と決めておけば、傷つかずにすむ。そうやって、心を守っていたんだと思います。

通知表の数字が教えてくれた「どうせ無理」は、勉強や運動だけにとどまらず、恋にも、進路にも、じわじわと染み出していって、いったん身につくと、人生のいろんな場面で顔を出してきました。


消去法で選んだ、工業高校の電気科

そんな僕が、高校を選ぶときの基準。

夢でも、希望でもありません。「これならできるかも」でした。

「あれも無理そう」「これも続かなそう」。できなさそうなものを一つずつ消していって、最後に「電気なら、なんとかついていけるんじゃないか」が残った。

工業高校の、電気科。消去法で残った場所、というのが本当のところです。

「将来これをやりたいから、この学科を選んだ」と胸を張れる同級生もいました。

夢で選んだ友だちがまぶしく見えて、消去法で残った道に進んだ自分が、どこか中途半端に思えて、当時の僕は、その選び方が少し恥ずかしかったんです。

でも、今は違います。たくさんの「無理」を引き算して、最後に残った「これならできるかも」に賭けた。それも、ちゃんとした選び方だったと思っています。


15クラスが、11クラスに減る場所で

入ってみて、分かったことがあります。

1年生のときに15クラスあったのが、3年生になると11クラスに減る。そういう高校でした。

4クラス分の人数が、途中でいなくなる。気づくと、席が空いている。誰かが静かにいなくなっていく感じが、子ども心にも分かりました。

その高校では、「続ける」こと自体が、当たり前ではありませんでした。

得意科目で稼いで乗り切る、なんてことはできません。毎日通って、授業を受けて、実習をこなして、テストを受ける。一つずつ、なんとか食らいついていくしかなかった。

そして僕は、留年せずに卒業しました。

たったそれだけです。首席でもない。賞もない。誰かに褒められたわけでもない。

でも、「どうせ無理」が口グセだった僕が、クラスがいくつも消えていく場所で、自分の席に座り続けて、最後まで残りました。

あの卒業は、僕の人生で最初のセーブポイントでした。

つまり、「ここまでは、ちゃんとやれた」と、あとから何度でも思い出せる場所になった、ということ。

誰も褒めてくれなくても、僕だけは知っていて、それは「どうせ無理」と逃げてばかりだった僕が、はじめて「逃げなかった」と言える、小さくても確かな記録でした。


18歳、初めての居場所

18歳で、電気工事の現場監督の仕事に就きました。図面を見て、現場をまわる仕事です。

正直、社会に出るのはこわかったです。「ここでもまた、できないやつだと思われるんだろうな」と。

でも、その会社には、同じ高校の先輩が3人いました。

その3人が、新入りの僕を、本当にかわいがってくれました。仕事を一から教えてくれて、失敗しても頭ごなしに怒らず、できるようになるまで何度でも付き合ってくれた。

「自分の居場所ができた」。そう思えたのは、生まれて初めてでした。

現場では、テストの点なんて誰も気にしません。見られるのは、現場をきちんと回せるか、頼まれたことを最後までやるか、です。

学校の物差しが世界のすべてじゃなくて、学校の物差しでは下のほうにいた自分でも、別の物差しの上ならちゃんと立っていられる場所がある、ということを、僕はあの現場で初めて知りました。

もし消去法で電気科を選んでいなかったら。もし留年せずに卒業していなかったら。この先輩たちにも、この居場所にも、出会えていませんでした。


それから、のこと

ようやく見つけた居場所でしたが、そのあと、目の病気がやってきます。

27歳で緑内障と診断されました。図面の細かい字が、だんだん読めなくなっていきました。

31歳で視覚障害者になり、13年勤めたその会社を離れました。消去法で選んで、やっと手に入れた居場所が、静かに終わっていった。本当に悔しい時間でした。

31歳で、トライアスロンを始めました。きっかけは、全盲の女の子がトライアスロンをしているテレビの映像です。

最初は、25メートルも泳げませんでした。少し走れば、1キロで膝が痛くなる。徒競走でビリか、ビリから2番目だった子どもが、泳いで、漕いで、走るんですから。

そのあと、「大学、行ってみたら?」の一言に背中を押されて、人生で初めての大学受験もしました。単位をひとつ落とせば留年という中で、留年せずに卒業して、あん摩マッサージ指圧師の資格を取りました。

大学で必死だったあの頃、頭の中でくり返し聞こえていたのは、「あのとき留年せずに卒業できたんだから、今度も1日ずつなら続けられるかもしれない」という、高校時代の自分の声でした。


才能より、「続けた」があとから効く

トライアスロンを始めた僕には、ひとつだけ得意なことがありました。

コツコツ続けることです。

25メートルが、50メートルになる。1キロで痛かった膝が、2キロ、3キロと走れるようになる。昨日より1ミリだけ、できることが増えていく。

始めるとき、受け入れてくれる倶楽部に問い合わせました。そこで出会ったコーチがいました。その方は、なんと、テレビで見たあの女の子のコーチでした。

始めて半年ほどで出た、初めての大会(2012年のアジア選手権)で1位。その後、2015年と2016年には、アジア選手権で2年続けて1位。世界ランキングは、最高6位まで行くことができました。

……徒競走でビリか、ビリから2番目だった子どもが、です。

才能がある人は、ぱっと結果を出して、まわりを驚かせます。僕には、それはできませんでした。

その代わりに僕が持っていたのは、派手じゃなくても消えていかない力で、一気に駆け上がれない分だけ一段ずつ積み上げていたら、いつのまにか、思ってもみなかった高さまで来ていました。

続ける力は、その瞬間には誰にも褒められません。でも、ずっとあとになって、人生のどこかで必ず効いてきます。僕の場合は、それがIRONMANのスタートラインでした。


学校の物差しは、君の種目をまだ測れていないだけ

通知表に、「続ける力」という科目はありませんでした。

徒競走に、「ガイドと信頼で走る」という種目もありませんでした。

僕の種目は、学校の外にあったんです。そして、その種目を一緒に走ってくれる仲間とも、学校の外で出会いました。

僕がここまで来られたのは、僕の力だけではありません。現場でかわいがってくれた先輩がいて、大学を勧めてくれた方がいて、テレビの女の子と、その子のコーチがいて、今も一緒に走ってくれる仲間がいる。たくさんの人に支えられて、ここまで来ました。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。

もし君の通知表に、今、1や2が並んでいても。徒競走で、後ろのほうでも。

それは、「君がダメ」という意味じゃありません。

学校の物差しが、君の種目を、まだ測れていないだけです。

消去法で選んだっていい。「これならできるかも」は、立派なスタート地点です。

大事なのは、選んだあとに、自分の席に座り続けられるか。誰にも褒められなくていいし、地味でいいから、「留年せずに卒業する」みたいな自分だけの小さな誇りを、ひとつ守ってみてください。

僕の種目が始まったのは、31歳でした。だから、君のスタートが少し遅くても、まったく問題ありません。その「続けた」が、いつか君の種目につながっています。


🔥 挑戦の続きを、見届けてください

2026年9月13日、IRONMAN JAPANを完走しました(14時間43分54秒・PCクラス2位)。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。次の挑戦も、日々の練習やレースの様子を発信していくので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。

📷 Instagramをフォロー ▶️ YouTubeを見る

最後まで読んでくれて、ありがとうございます

中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。

📷 Instagramをフォロー ▶️ YouTubeを見る

新しい記事が出たら、メールでお知らせします。すぐ下のフォームから登録できます ↓

動画でも見られます:IRONMANシリーズ

25メートルも泳げなかった僕が、ガイドとロープでつながって226kmに挑むまでを、YouTubeで1話ずつ動画にしています。

▶ IRONMANシリーズを第1話から見る(YouTube)

💬コメント

🎤 講演のご依頼・お問い合わせ

「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。

📧 つなひろワールドへお問い合わせ

RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人