好きなことを続けたい。でも、食べていけるんだろうか。そう考えて、手が止まったこと、ありませんか。
もしあなたが、夢と生活のあいだで、ゆれているなら。
もしあなたが、「どちらかを選ばなきゃ」と思いこんでいるなら。
もしあなたが、「障害があると、働き方はかぎられる」と思っているなら。
この記事は、あなたのためのものです。
僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
講演の会場で、ときどき聞かれます。「視覚障害のあるアスリートは、どうやって稼いでいるんですか?」
聞かれるということは、知りたい人がいるということです。
具体的な金額は書きません。でも、どう働きながら競技を続けているのかを、できるだけ正直に書きます。
最初に、正直なことを書きます。
パラアスリートの世界で、賞金やスポンサーだけで生活できている人は、ごくわずかです。
夢のない話ではありません。現実の話です。多くの選手は、何かの形で働きながら、競技を続けています。
僕も、そのひとりです。
競技だけで食べているわけではありません。支えられながら、働きながら、挑み続けています。
でも、それを「妥協」だとは思っていません。働きながら挑む形は、僕にとって自然で、納得のいくやり方です。
軸は2つあります。ひとつは「アスリート雇用」。もうひとつは「講演」です。
夢を追いたいけれど生活もしていかなきゃいけないという、その2つのあいだでゆれる気持ちは、僕にも痛いほど分かるので、理想の話ではなく、ひとりの人間の実際のやりくりを、そのまま見てもらおうと思います。
ひとつめは、アスリート雇用です。
会社が、競技を続けるアスリートを社員として迎えてくれる仕組みです。
僕は、ある会社にアスリート雇用で入りました。
はじめは、5年契約の契約社員でした。そのあと評価していただいて、期限のない、無期契約の社員になりました。
いいところは、競技と仕事を切りはなさなくていいことです。
会社の一員として働きながら、トライアスリートとしても挑み続けられる。「アスリートか、社会人か」のどちらかではなく、両方でいられます。
見えにくくなって、一度は仕事をなくした僕にとって、これは本当にありがたい働き方でした。
一度は「もう社会に自分の居場所はない」と思った僕が、もう一度「ここで挑んでいい」と思える場所に出会えたのだから、この働き方そのものが、僕にとっては希望でした。
無期契約になってから、マネージャーに、ある話を聞きました。
同じ会社に、70歳のアスリートが入社した、という話です。
70歳で、現役。
僕は、その方に会ったことはありません。聞いただけです。
それでも、思いました。年齢じゃない。どう生きるかだ。
僕も、70歳まで挑戦を続けたい。
……聞いただけで目標を決めるのは、単純すぎるかもしれません。でも、決めました。
「障害がある」「もう若くない」。世の中は、できない理由のラベルを、勝手に貼りがちです。
そのラベルをはがして自分の形で挑んでいる人がいると知っただけで、まだ会ったこともないのに背中がまっすぐになったのだから、アスリート雇用は、僕に働く場所だけでなく、生き方の目標まで見せてくれたのだと思います。
もうひとつの軸が、講演です。
今、年に50回前後、学校や企業など、いろいろな場所で話をしています。
話すのは、特別な成功の話ではありません。
「ピンチはチャンス、カギは工夫」。体で学んできたことを、そのまま伝えています。
講演は、競技とつながった仕事です。挑み続けているから、話に力がこもります。人に伝えることが、また競技への力になります。
楽な仕事ではありません。
はじめての場所での講演は、移動の段取りもふくめて、1日がかりです。シュクレと一緒に、慣れない駅から会場へ向かう。迎えてくれるスタッフさんと合流する。そこでやっと、登壇です。
そして、「教える側」のつもりで行っても、毎回どこかで「教わる側」になります。……どっちが講師なんだか。
聞いてくれる人の反応や、子どもたちのするどい質問や、会場の空気から僕がもらっているものは、お金には換えられないもので、仕事でありながら、いつも僕のほうが学ばせてもらっています。
しみじみ感じていることがあります。
競技を続けてきたことが、そのまま今の仕事につながった、ということです。
見えなくなっていく時期、僕の先は、まっ暗でした。
現場監督なのに、図面が見えなくなる。仕事が内勤に変わる。確認の作業が、1回から2回、3回と増えていく。
「昨日できたことが、今日できない」。
あのころの僕に、「将来は講演を仕事にしているよ」と言っても、ぜったいに信じなかったと思います。
でも、トライアスロンを始めて、挑み続けてきた。その積み重ねが、アスリート雇用という働き方を呼び、講演という仕事を呼びました。
競技は、ただの趣味でも、現実からにげる場所でもありませんでした。
あの日、動くのをやめていたら、今の働き方はどれひとつ手に入っていなかったはずで、好きなことを続けた先に、それが思いがけない形で仕事に変わることがあるのだと、僕は自分の人生で見てきました。
もうひとつ、外せない出来事があります。30代で、人生で初めての大学受験をしたことです。
会社を離れて、先がまっ暗だった僕に、相談していた方が言ってくれました。「大学、行ってみたら?」
その一言で、僕は鍼灸を学ぶ大学に入りました。勉強がとても苦手だった僕が、30代で大学生です。
正直に書きます。国家資格のうち、鍼師と灸師は不合格でした。
……いい話の途中で、すみません。本当のことなので。
でも、あん摩マッサージ指圧師には、合格できました。
これは、お金に直接つながったというより、「まだ自分は終わっていない」という証明でした。
競技。アスリート雇用。講演。そして資格。ふり返ると、僕の足元には、いくつかの柱があります。
柱が一本だけだと、それがゆれたとき、立っていられません。
柱が何本かあるのは、セーブする場所が何か所もあるようなものです。
つまり、ひとつがうまくいかない時期があっても、ほかの柱が支えてくれるので、全部を失わずにすむ、ということです。
タイムや結果が思うようにいかない時期にも心が折れずに、長い目で淡々と挑み続けられるのは、働きながら挑む形を選んだからで、学び直しは、お金の話であると同時に、心の支えの話でもありました。
こう書くと、僕が自分の力だけで道を切りひらいたように聞こえるかもしれません。ちがいます。
アスリート雇用で迎えてくれた会社があります。競技を支えてくれるガイドやコーチがいます。講演に呼んでくださる方がいます。シュクレが、毎日の移動を支えてくれています。
僕が働けているのは、雇ってくれた人、呼んでくれた人、一緒に走ってくれる人が、それぞれの場所にいてくれるからです。
昔は、支えてもらう側になるのが、情けなかった。
今は、ちがいます。
支え合いの中で働くことは少しも恥ずかしいことではなくて、つながりの輪のまん中で働かせてもらっているというのが、いつわりのない実感です。
「どうやって稼ぐのか」という質問は、つきつめると、「どう生きるのか」という質問だと思います。
競技だけで食べられないなら、働きながら挑めばいい。ひとつの収入に頼れないなら、軸をいくつか持てばいい。
「できるか、できないか」ではなく、「どうやったら、できるか」の話です。
僕は、現場監督から視覚障害者になって、一度は仕事をなくしました。それでも、やり方を変えて、形を変えて、今こうして働きながら挑み続けています。
もしあなたが、「好きなことを続けながら、どう食べていくか」で悩んでいるなら。
夢か、生活か。挑戦か、仕事か。その二択で悩まなくて大丈夫です。両方、持っていい。
働き方の選び方は、自分で思っているよりもずっとたくさんあって、働きながら挑むことは妥協ではなく、長く続けるための立派な作戦なのだと、僕は自分の毎日で感じています。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
あなたの「続けながら食べていく道」を、心から応援しています。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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緑内障の診断からIRONMAN完走までを、16分の動画にまとめました。
RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人